ああ すれ ば こう すれ ば。 「ああすれば、こうなる」がイマイチ楽しめない人へ!不安を乗り越えろ!『人間科学』(養老孟司)

ああすればこうなる時代の終わり

ああ すれ ば こう すれ ば

今回の記事を書こうと思ったきっかけはこちらのツイートを見かけたことによります。 就活生や大学をここまで追い込んだのは、「こうすれば、こうなる」と信じ、最短距離で実現する完成した人材を欲した、企業や社会の問題でもある。 「こうすれば、こうなる」というノウハウを得るには、仮説と試行錯誤の検証、というプロセスを体験することが不可欠だが、それが置き去りにされている。 「こういう行動を起こせばこういう結果が得られる」という原因と結果の関連性を単純に捉えすぎているのではないか、というメッセージを私はこのツイートから読み取りました。 「こうすれば、こうなる」という因果関係は私たちが思うよりも複雑なものであり、それを読み解けるようになるには訓練が必要であるということのようです。 さて、このツイートをみて、私は以前こんな本を読んだことを思い出しました。 養老孟司著『』です。 環境問題を扱った本なのですがその序盤にこんな一節があります。 少し長くなりますが、引用します。 意識が作り出した世界、頭で考えて作った世界を、私は「脳化社会」と呼んでいる。 具体的には都市のことである。 自然が作った人間の体と、脳化社会はあちこちで矛盾する。 そのことを二十年くらい言い続けているが、十分には理解してもらえていないと思う。 たいていの人は、中年になって突然、体の心配をはじめ、健康にいいとされているものを次々に試すようになる。 自分の体が自然に属することをずっと忘れていて、中年になって急に気がつき、あわてだす。 ふだんは田畑の面倒をみていなかった人が、突然面倒をみはじめるようなもので、まあ、間に合うわけがない。 これも広義の環境問題であろう。 人体という自然をめぐる話だからである。 身体を自然の一部だと認めることは、ふつうにはむずかしいことらしい。 結核が治せるようになったのは、ストレプトマイシンなどの抗生物質が開発され、それがよく効いたからだとされる。 薬を開発したのは意識だから、薬はつまり人工である。 しかし、イギリスに疫学的なデータを丁寧にとった研究者がいて、それによると、抗生物質が開発されるより前から、結核患者数はどんどん減っていたという。 このデータに従えば、結核患者の減少には抗生物質よりも、社会経済構造が変化し、生活状態が向上した効果が大きく効いたことになる。 まだ有効な薬がない時代、日本でも結核の治療は大気、安静、栄養だと言われていた。 ではなぜ「抗生物質で結核が治った」と説明されるのか。 そこには都会人の価値観がよく現れている。 積極的に薬を投与したら、結核が治った。 その考え方のほうを、近代人は好む。 体を取り巻く状況をよくしてやったら、病気が「ひとりでによくなった」という話は、あまり好かれない。 自分のおかげでよくなったと、意識が威張れない。 そう思うせいかもしれない。 なにかをしたから、おかげでこういう結果になった。 こう考えたがる人間の性向を「ああすれば、こうなる」型の思考と呼ぶ。 じつはこれが、脳化社会の基本思想である。 「ああすれば、こうなる」という図式は、とくに体を含めた自然の問題には当てはまらないことが多い。 自然はそれほど単純にはできていないからである。 一般の人は、病気というと決まった原因があり、その結果ある症状が起こり、極端な場合には死ぬと考えていると思う。 しかし、ある症状が起こってくる原因は、じつは無数にある可能性がある。 (中略) 人間が理性的だと信じているやり方、つまり「ああすれば、こうなる」という考え方は現代社会の基本常識だが、じつは基本的に問題を抱えている。 そのことを、だれでも知っているべきだと思う。 もちろん都市社会はそれが成り立つようにつくってあるのだから、ふつうはそのやり方でうまくいく場合が多い。 しかし、そうならない可能性はつねにある。 自然のなかでは、むしろそうならないのがふつうである。 「柳の下にドジョウがいるとは限らない」のである。 「ああすれば、こうなる」式の思考がはびこるようになったのは、人間が自然とつきあわなくなったからである。 自然はたくさんの要素が絡み合う複雑なシステムである。 だから、自然に本気でつきあっていれば、「ああすれば、こうなる」が通らないことが体験できる。 でも人工環境では、そのことに気づかない。 教わる機会を逸するからである。 人工環境とは、むしろ「ああすれば、こうなる」が成り立つ世界のことなのである。 そうなるように人間が、つまり意識が都市をつくったのだから、それで当然である。 むろん都市の外、つまり自然に対しては、それが成り立つ保証はない。 まとめると「物事の結果にはたくさんの要因が複雑に影響しているが、都市生活に慣れている人たちは意識的にとった行動が結果を生み出したと思いたがる」ということになります。 そして、その要因として自然と付き合わなくなったことを挙げていますが、別に私はこの記事を通して「自然ともっと触れ合うべきだ」と訴えたいのではありません。 私が言いたいのは、養老氏とは意見が異なりますが、 都市社会の中でも「ああすれば、こうなる」が通用しないことはいくらでもあるということです。 自然と人間社会の接点とも言える農業を例に挙げれば、たとえどんなに努力して農作業に励んだとしても、冷害や干ばつなどの自然現象の影響は、人間が行う努力によるものよりずっと大きいものです。 そういった、人間の努力の及ばない外的要因は、都市社会の中にも無数に存在します。 例えば、学力とその家庭の経済力の相関関係は、今や疑いようのないものとして扱われています。 学力向上に及ぶ影響としては、本人の努力以外に、教員との相性、学級の雰囲気、家庭内に落ち着いて学習できる環境があるかなど、様々な要因が挙げられます。 冒頭で引用したツイートでは就活を話題にしていますが、就活の成果に関しても、同様のことが言えるでしょう。 住んでいるところが地方か都心かによっても、就活にかかる費用や時間は大きく異なります。 何か1つの結果が生じるまでに、当人のあずかり知らない無数の要因が複雑に影響しているのは、自然環境の中でも現代社会の中でも、程度の差はあれど同じだということです。 もちろん都市社会の中で起こる現象は自然環境よりも予想がつきやすく、訓練によってそのノウハウを獲得することはある程度可能だと思われます。 投資家や成功している企業経営者は、そのノウハウを熟知している人たちだと言えるでしょう。 冒頭のツイートではその訓練の機会をいかに確保するかを問題にしているわけです。 この「ああすれば、こうなる」型思考の裏にあるのは、「物事をなるべくシンプルに理解したい」という欲求と「(ある程度成功している)自身のポジションは自分の努力によって獲得したものだと思いたい」という欲求です。 前者に関しては、私たちのあずかり知らない影響を考慮に入れて複雑な因果関係を繊細に捉えることを面倒に感じ、その労力を惜しんでしまう心理の表れでしょう。 後者に関しては、もちろん自身の成功の要因を「運によるものだ」と考えるより「自分の手柄だ」と考える方が気分が良いですから、当然の欲求と言えるでしょう。 という心理用語があるようです。 メルビン・ラーナーという心理学者が提唱したものらしいのですが、「世界がコントロール可能であり予測可能であってほしいと願い、それが高じて世界は公正だと思い込むようになる」心理現象とのこと。 まさに「ああすれば、こうなる」型思考を説明するのにぴったりの言葉です。 「ああすれば、こうなる」型思考の弊害は様々ありますが、最も顕著なのは生活保護叩きや就活に失敗した人たちへのバッシングなど「努力をしなかった結果困窮しているのだから、支援する必要はない」という世論を形成してしまうことでしょう。 私たちは自身の今のポジションを「自分が努力した結果だ」と思いたいものです。 困窮している人たちへのバッシングは、そういった欲求とワンセットのものです。 困窮しているという結果の要因として、個人の努力と環境的な要因がどれほどの割合で生じているのかは、数値で表すことができない以上「これが唯一の絶対的な要因だ!」と断定することはできないのです。 また同様に、「これさえ解決すればすべてうまくいくはずだ!」と問題の原因を1つのものに求めてしまうのも、やはり危険なことだと言えるでしょう。 (よかったら「」を参照してください。 ) 実際問題として、1つの原因と結果がストレートに結びつくことはあまりないと言って差し支えないでしょう。 「カオス理論」や「バタフライエフェクト」なんて言葉もあるようですが、あまり専門的なことは私にはわからないので、関心のある人はご自分でググってください。 実際に飛行機を飛ばしたり、月への有人飛行を成功させた人たちというのは、関連する要因を事細かに考慮に入れて緻密な計算を積み重ねることによってそれを成功させているわけです。 よく、生活保護バッシングの文脈で「努力が報われる社会にしろ」という主張が見られますが、因果関係を単純に捉えすぎているという問題はあるものの、「努力が報われる社会であってほしい」という願いそのものは真っ当なものです。 しかし、 本気でそう願うのであれば、他者を攻撃するのではなく、それを実現するために具体的に何をするべきかを建設的に考えなければなりません。 それは、飛行機や宇宙ロケットの開発のプロセスと同じように、社会構造をつぶさに分析し、「努力が報われる社会」の実現のために必要な政策を緻密に考えていくことが必要です。 現時点においてそれを実現しているのは、北欧を中心にみられる高福祉国家の姿のように私には思えるのですが、みなさんはどう考えるでしょうか。

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株式会社フロムスリー

ああ すれ ば こう すれ ば

こんにちは! 改めて、よく考えてみるとやっぱり 人間ってとんでもないですよね? だって、地下深くから空高く建物は立てるし、海底深くへ潜ったかと思えば宇宙まで飛んで行っちゃう。 原子レベルの操作で自然にはない色々なものも作っちゃう。 情報はインターネットを通じて世界中へ一瞬で伝えられます。 様々な工業製品は世界のどこかで大量に生産されて、とんでもない低価格で手に入り、スマホなんていう小型高性能パソコンを皆当たり前のように持ち歩いています。 医療は進歩して、新生児の死亡率低下や平均寿命の増加は著しいです。 しかし一方で、格差など社会問題はいつもありますし、戦争したりもしています。 また、内面は案外脆く、人間関係や自己の在り方に悩んで精神的に病んでしまうことも少なくありません。 こんな複雑極まりない営みを生み出す 人間とはなんなのでしょうか? 現実の具体的な問題をそれぞれ考えるのも大切ですが、時には 根本的な部分に立ち返ってみるのも大事なんじゃないでしょうか?そうしたら今抱えている問題が全然違って見えてくるかもしれません。 今回紹介する『人間科学』では、変わることのない 『情報』と変わり続ける 『システム』という視点から人間の営みを鮮やかに紐解いていきます。 著者は『バカの壁』で有名な養老孟司先生です。 『情報』は変化する? 『情報』と聞くと、ニュースや新聞記事などの中身を思い浮かべるかもしれませんが、それは『情報』ではなく『状況』です。 先生のいう『情報』とは『それ自体では意味を持たず、あるシステムの中で翻訳され意味を持ち、システム同士の間を流通しているもの』です。 少し抽象的で分かりづらいので、身近な例をあげます。 『言葉』です。 たとえば「りんご」という『言葉』はそれ自体に意味はないですが、ぼくたちは「りんご」と聞くとあの赤い果物を思い浮かべるでしょう。 また相手にあの赤い果物のことを伝えるときに「りんご」と言います。 もしこのとき「りんご」が「りんこ」になってしまってはその役割を全く果たせません。 つまり『情報』は不変、というより 不変なものが『情報』なのです。 意識の厄介な作用 不変な『情報』に対して、それを扱う私たちはどうでしょう? はやい話が、この本を読む前の僕と読んだ後の僕は間違いなく変化しています。 これは読書に限らず、日々の体験の中で実感される当然のことですよね? 僕たちは変化するのです。 しかしながら、どうかすると不変のものであると勘違いしてしまうことがあります。 先ほどの読書の例だと、自分はこの本を読むことでこの本の考え方という武器を手に入れた、というようなイメージです。 もちろん武器を得ることも立派な変化かもしれません。 ですが、武器を得ることが目的となって、まるで武器商人のようになってしまったり、役に立つ武器だけを求めてしまったりするかもしれません。 武器のいらない世の中になると立ち尽くしてしまうかもしれません。 なぜ自分は不変であると勘違いしてしまうのか? ここでは詳しくは説明しませんが、実はそう勘違いすることこそが脳の役割の一つなのです。 キーワードは「異なる感覚入力の統合」です。 意識の行き着く先、脳化社会 都市の在り様は意識の行き着く先を考える参考になります。 実際の都市を思い浮かべてみると、 自然物が徹底的に排除されていることに気が付きます。 (人工の自然はある) そう、都市の人々が求めるのは物事の予測と統御です。 つまり「 ああすれば、こうなる」 突き詰めると思考の放棄です。 これが先生の言う 脳化社会です。 脳化社会を超えて(感想) 「 個性」という言葉があります。 就活も近い身としては嫌でも意識せざるを得ないのですが、現在の「個性」が意味するのは要するに「社会やその会社に貢献できる具体的な力」だと思います。 だから「個性」を「身に着ける」ために(おかしな表現ですが)、インターンや留学などの経験や資格なんかの武器を手に入れるんじゃないでしょうか? もちろんそうした行動をしっかり自分の糧としていく人もいると思います。 その違いは自分を固定してしまうか、経験を通して自分が変わっていくことを楽しむかの違いではないでしょうか?多分自然に楽しんでいる部分もあると思うので、 意識的になることでもっと前向きになれると思います。 逆に言えば、経験は別に社会的に武器となるようなことでなくてもいいはずです。 「ああすれば、こうなる」って確かに安心ですけど、 どこか疲れてしまう部分がありませんか?期待外れだとすごく損した気分になるし、「こうなら」ないと損だと考えてしまってつまらなくなってしまったりします。 先生は固定した自己を基準にできた脳化社会の先の世界の基準になるのは「 人間であること」ではないかと言っています。 「ああすれば、こうなる」に拘らない。 不安もあるかもしれないけど、楽しみもある。 読みやすさ 230ページほどで11章からなります。 一見ややこしそうに見える言い回しもありますが、分かればなるほどなという感じです。 所々解説が入ります。 各章毎に読むと、気軽に読めるかもしれません。 3時間弱で読むことができました。 まとめ 一番身近で一番不可解な 『人間』から話が展開する養老先生の著作はいつも面白くて興味深いです。 ある程度ボリュームはありますが、その分論理や背景知識が丁寧です。 ちょっと 脳化社会に疲れた人はぜひ!.

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ああすれば こうなる|にさか吉伸後援会 公式ホームページ

ああ すれ ば こう すれ ば

たこおじさんです。 おじさんも書きます。 >ただただ可哀想な人間なのでしょうか? 可哀想かと聞かれれば可哀想な人だと思います。 常に後ろ向きだからです。 >理想の過去の人生を妄想することで気持ちを消化できる これは逃避で自分を納得させているわけですからね。 理想を実現するために、人は努力し頑張るのだと思います。 そもそも理想とは何かですが。 理想どおりに、思い通りにいかないのも人生です。 努力しても、頑張っても理想どおりになどいかないものです。 それでも、それに近づくために努力は惜しむものではないですよね。 過去に自分が思い描いたようにいかなかった場合。 そこには反省点もあるはずなのです。 反省材料があるのであれば、そこから逃げるのではなく 何が悪かったのかと、それを次にいかすことではないですか。 誰だって失敗はあるのですから。 失敗から学んでいくのですから。 そういう作業をせずに、「あのとき、こうしたら」とか そんなことばかり思っていて、想像のなかで納得させていたところで これで良いと考えているようでは、何も成長などないですよ。 過去は過去として割り切り、考えているだけではなく 次のために行動しましょう。

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