シルヴィア ライケン ス 殺害 事件。 『アメリカン・クライム』/その時、少女に何が起こったのか?実話を元にした物語。強烈な悪意と残酷さに放心状態になります。

ライケンス

シルヴィア ライケン ス 殺害 事件

殺人博物館〜ジョン・リー ジョン・リー John Lee (イギリス) ジョン・リー 死刑執行人ジェイムス・ベリーの名刺 大島渚に『絞死刑』というブラックコメディがあるが、あれを彷佛とさせる事件である。 『絞死刑』の場合は首は吊ったが死ななかった。 ところが、ジョン・リーの場合は、そもそも落とし戸自体が開かなかったのだ。 1884年11月15日深夜、トーキー近くに住む年配の未亡人 エマ・キーズが惨殺された。 喉を荒っぽく掻き切られ、頭部をめった打ちにされている。 遺体の悲惨な状況から、相当な怨みを買っていたことが窺えた。 屋敷には外から侵入された形跡はなく、凶器のナイフも食料貯蔵庫にあったものだったことから、内部の者の犯行に思われた。 この家には夫人の他には2人のメイドと1人の雑役夫しか住んでいない。 当然に雑役夫が疑われて、この男が ジョン・リーだった。 聞き込みをすればするほど彼の嫌疑は濃厚になっていった。 彼はかつてこの屋敷で銀器を盗んで有罪になったことがあったのだ。 にも拘わらずキーズ夫人が再び彼を雇い入れたのは、弱みにつけ込んで給金を値切るためだった。 従来の半分しか支払わず、つい先日もその仕事ぶりにケチをつけて6ペンス減らしたばかりだった。 彼が夫人に相当な怨みを抱いていたことは間違いない。 やがて彼の部屋から血のついた衣服が発見された。 陪審員は僅か40分の協議で有罪を評決し、リーは死刑を宣告された。 さあ、いよいよ処刑の当日である。 死刑執行人 ジェイムス・ベリーがせえのでレバーを引いた。 ところが、どういうわけか落とし戸が開かなかった。 慌てたベリーはがちゃがちゃとレバーを何度も動かし、終いにゃ足で落とし戸をどしんどしんと踏みつけたがビクともしない。 ダメだこりゃ。 やりなおしやりなおし。 リーを台から降ろして、レバーを引くとちゃんと開く。 なんだよ。 開くじゃんかよ。 じゃ、君、もう一度上がって、とリーを再び台に乗せて、今度は思いっきりレバーを引いた。 レバーが曲がってしまったが、落とし戸はまたしても開かない。 っかしいなあ、っかしいなあ。 イラついた看守はベリーを睨みつけた。 勘弁してくれよお。 ただでさえイヤな仕事なんだからよお。 ちゃっちゃと済まそうよお。 リーを一旦、監房に戻すと、ベリーは装置の総点検を始めた。 故障はどこにもない。 開かない筈がない。 だいじょうぶ。 あの人、呼んできて。 リーを三たび台に乗せると、どうか開いて下さいと天に祈りながらレバーを引いた。 開かなかった。 ここで牧師が悲鳴を上げた。 もうこれ以上、見ちゃいられない。 囚人はもう三度も死の恐怖を味わったのだ。 ここらで許してあげちゃどうだろうか? 内務大臣サー・ウィリアム・ハーコートも同意見だった。 特赦により刑を終身刑に切り替えた。 かくしてジョン・リーは死刑を免れたのである。 当の彼はきょとんとしてかく語りき。 「官憲が私の命を奪えなかったのは、おそらく神の思し召しでしょう」 リーは22年後に仮釈放され、結婚してアメリカに渡った。 その後の詳しいことは判っていないが、1933年に68歳で死亡したと伝えられている。 落とし戸はどうして開かなかったのだろうか? 執行人のベリー自身は「戸の木製の部分が軽すぎた」と回想録の中で述べている。 鉄製の部分と釣り合わせるためにはもっと重くなければならなかったのだそうだ。 誰かがイタズラして楔を差し込んでいたのではないかとの説もある。 最も信憑性が高いのが、前日の豪雨が原因とする説である。 豪雨のために湿気を吸った木が膨張し、重みがかかると落とし戸の両端がぴっちりとくっついて動かなくなってしまったのではないかと云うのだ。 いずれにしても、これほど幸運な男はまたといない。 左の画像をプリントして、お守りにしてみてはいかがだろうか。 なお、恥をかいた死刑執行人ジェイムス・ベリーは数ケ月後にまたもや大失態をやらかしている。 ロバート・グッデイルという殺人犯を処刑した際、縄の長さを間違えて首を切断してしまったのだ。 絞首刑にも技術がいるのである。 以下はベリーが長年の経験で導き出した体重と縄の長さの対応表である。 参考にされたし。 54kg以下 2.46m 56.6kg 2.40m 58.8kg 2.35m 61.2kg 2.23m 63.4kg 2.16m 65.7kg 2.05m 67.9kg 2.01m 70.2kg 1.98m 72.5kg 1.93m 74.7kg 1.88m 77.2kg 1.83m 77.2kg 1.83m 79.3kg 1.80m 81.5kg 1.75m 83.8kg 1.70m 86.1kg 1.68m 88.3kg 1.65m 90.6kg 1.62m 92.8kg 1.57m 95.1kg 1.55m 99kg以上 1.52m 参考文献 『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社) 『世界犯罪百科全書』オリヴァー・サイリャックス著(原書房) 『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス) 『死刑全書』マルタン・モネスティエ著(原書房).

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世の中で言われている一番最低最悪な事件と言えばなんですか?世界的にと日...

シルヴィア ライケン ス 殺害 事件

ちょっと重たい作品ですが、以前から観たかったので、レンタルしてきました。 この作品は、実際にあった事件を再現するような形で作られていて、裁判の様子なども織り交ぜられていて、この事件の概要が切ないほどによくわかります。 主人公はシルビアという女の子。 妹のジェニーと共に、移動遊園地のような巡業の売店で働く父親が「週に20ドル支払う」という約束で、知人女性・ガートルードの家に預けられる。 ガートルードはシングルマザーで、子沢山。 しかも、病気の為にほとんど働けず、高校生くらいの長女が家計を助けるために働いている。 シルビア姉妹は、最初の1~2週間くらいはガートルードの子供たちとも仲良くしていたが、親からの送金が少々遅れ、それが原因でガートルードからの虐待が始まってしまう。 シルビアも普通の学生生活を送っていたが、ある日、長女から妻子ある男性との子供を身ごもっていることを告げられ、内緒にしておいて欲しいといわれるが、ある晩のパーティーの時、長女がその相手の男性に乱暴にされてるのを見て、助けたいと、彼に彼女が妊娠していると言ってしまうのだ。 悪の中においては、そこに従っていることが正義である、弱いもの同士がつながりを求めて形成された仲間意識の中でのすり替え…っていうのかな。 この作品は、本当に重いテーマを扱っているし、誰にでもオススメしたいと感じる作品ではありませんが、正直に生きていきたい、強く生きていきたい、そう思ってる方には、1度でいいから観てもらいたいな、と思います。

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殺人博物館〜ジョン・リー

シルヴィア ライケン ス 殺害 事件

この記事には暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。 もお読みください。 ガートルード・バニシェフスキー Gertrude Nadine Baniszewski、(Gertrude WrightやNadine van Fossanの名でも知られる)、1929年9月19日 - 1990年6月16日 は、の女性者である。 ガートルードは、ジョン・バニシェフスキー、ポーラ・バニシェフスキー、リッキー・ホッブス、コイ・ハバードといった自身の子供達や近所の若者達を監督しながら、被害者であるシルヴィア・ライケンス(Sylvia Marie Likens)へのを助長させ、に文字を刻み付け、最終的に死に至らしめた。 この殺人事件は、ガートルードの公判の場で検察官により インディアナの犯罪史上で最も恐ろしい犯罪(the most terrible crime ever committed in the state of Indiana. )であると評された。 なお、この事件はシルヴィア・ライケンス事件(Sylvia Likens Case) 、あるいはバニシェフスキー事件(Baniszewski's case) などの名で知られている。 事件まで [ ] ガートルード・バニシェフスキー [ ] ガートルード・バニシェフスキーは、1929年にガートルード・ナディーン・ヴァン・フォッサン(Gertrude Nadine van Fossan)の名でヒューとモリー夫妻の6人兄弟の3番目として生まれた。 1940年にによる父親の急死を目撃。 その5年後、16歳で学校を中退して18歳の助手であったジョン・バニシェフスキーと結婚し、4人の子供をもうけた。 しかしジョン・バニシェフスキーは持ちであったため10年も経たずに離婚した。 その後すぐにエドワード・ガスリーと再婚、さらに2人の子供をもうけたが1963年までに再び離婚した。 さらに、34歳のとき23歳のデニス・リー・ライトと同棲するが、ライトはに走ったうえ 、息子のデニス・ジュニアが生まれた後、ライトはガートルードを捨ててしてしまった。 インディアナ州の新聞である誌の報道によれば、事件当時のガートルード・バニシェフスキーには、『やつれて、体重が標準以下で、持ち』 で、を患い、幾度かの結婚の失敗からのがあったのだという。 シルヴィア・ライケンス [ ] シルヴィア・ライケンス(Sylvia Marie Likens、1949年1月3日 - 1965年10月26日)は、旅芸人一座の労働者であったレスター、ベティ・ライケンス夫妻の子供として誕生した。 シルヴィアは2組のの間に生まれ、2歳年上のダイアナとダニエル、1歳年下のジェニーとベニーという5人兄弟の3番目であった。 ライケンス夫妻の結婚生活は不安定で、一家は頻繁に引越しをしていた。 シルヴィアはしばしばよその家にしたり、強引に親戚の家に預けられたりした。 また、シルヴィアはベビーシッターやアイロンがけのアルバイトを行っていたほか、好きなグループは当時の若者として一般的なであった。 バニシェフスキー家の下宿に入った最初の頃には、ガートルードの娘のステファニーと一緒にビートルズの歌をうたい、彼女と好意的な関係にあったという。 なお、シルヴィアは、14ものを転々としていた。 これまでの彼女の生活では頻繁に引越しを繰り返され、両親が子供たちを連れて一緒に行くことが出来ない場合には、祖母の家に預けられたり、よその家に下宿したりすることが数多くあったためである。 1965年には、祖母がで逮捕、されたために、で母親と一緒に生活していたが、その時期にシルヴィアの妹であるジェニーがのでとなった。 その頃妻と別居していたレスター・ライケンスは、娘たちの下宿先を探していたところ、知り合いであったポーラ・バニシェフスキーの母親であるガートルード・バニシェフスキーから、シルヴィアとジェニーの下宿を引き受けるとの申し出があった。 実際にはバニシェフスキー家は非常にであったが、レスターは後に裁判で陳述したように家の中の様子を見せてもらえず、またガートルードの「娘を正してあげる(straighten his daughters out)」という言葉に勇気付けられた 結果、レスターは週20ドルで娘たちを下宿させてもらうことに合意したのだった。 シルヴィア・ライケンス事件の概要 [ ] バニシェフスキー家への下宿 [ ] 1965年7月から、ライケンス姉妹はバニシェフスキー家へ下宿しはじめた。 姉妹はに通いながらバニシェフスキー家の子供達と一緒に生活し、日曜日にはガートルードとへ行ったりした。 しかし、一週目に最初の20ドルの支払いが一日遅れると、ガートルードはライケンス姉妹を殴打した。 それからまもなく彼女らは、それが実際には食料品店で購入したものであったにも関わらず、ガートルードにを盗んだ疑いをかけられてさらに殴打された。 ガートルードは、このようにして典型的なに陥っていったのである。 虐待初期 [ ] 1965年8月には、ガートルードはシルヴィア・ライケンスを言葉や物理的手段でし始め、年長の子供達にはシルヴィアを殴打させ、階段から突き落とさせた。 また、ガートルードはシルヴィアがボーイフレンドを作ったことに激怒し、性器を幾度も蹴りつけた。 また、それは事実ではなかったにも関わらず、シルヴィアが妊娠していると糾弾した。 その後さらに、シルヴィアをと罵るようになり、淫売の汚らわしさと一般の女性のありかたについての『説教』をするようになった。 また通学していた高校(Arsenal Technical High School)で、ステファニーとポーラが売春をしているというを、シルヴィアが流しているという虚偽の疑いをかけられた。 これはステファニーのボーイフレンドであったコイ・ハバードを激怒させ、シルヴィアは暴力を受けた。 これを知ったガートルードは、コイ・ハバードやその他数人のクラスメート、近所の少年らによるシルヴィアへのを後押しした。 妹のジェニー・ライケンスの証言によれば、これはバニシェフスキー家の娘のポーラとステファニーは実際にをしていたためにガートルードに罵られ、その憂さを晴らすための行為であったという。 ガートルードは妹のジェニーにまで、シルヴィアへの殴打を強制した。 行為のエスカレート [ ] 1965年8月にフィリス、レイモンド・ヴァーミリオン夫妻はバニシェフスキー家の隣に引越してくると、すぐにシルヴィアが虐待され暴力を振るわれていることに気づいたが、当局へ通報しようとはしなかった。 その頃、シルヴィアは高校で体操服を盗んだ。 彼女はを購入する費用をガートルードから貰えなかったために体操服が購入できず、このままではの授業に参加できなかったのが原因であった。 しかし、体操服をガートルードに発見されると、シルヴィアは暴行され、をさせられて、の火を押し付けられた。 なお、煙草の火を押し付けるのはその後のガートルードの習慣となった。 それ以降、ガートルードはシルヴィアを学校へ行かせなくなり、それから間もなく、再びシルヴィアを淫売と罵るようになった。 さらに、ガートルードはクラスメートや近所の若者達の前で、強制的にを脱がせてさせた。 シルヴィアは涙を流しながらぎこちないストリップを行ったという。 その後、ガートルードはシルヴィアのにの瓶を強引に挿入したりした。 なお、シルヴィア・ライケンスへの拷問は、非常に多くの性的要素を含んでいたが、一方で"性交渉なき性犯罪(sexless sex crime. )"と言えるものであった。 シルヴィアは、ガートルードに性器を繰り返し蹴られ、クラスメートや近所の若者の前で全裸にさせられ、膣にボトルを挿入されているが、ガートルードがとしてシルヴィアを嬲った根拠は報告されておらず、また、拷問に参加したいずれの若い男も、やを彼女に強いなかったと考えられている。 これは通例から考えると不可解なことであるが、おそらくコイ・ハバードがシルヴィアをすることでステファニーにを疑われるのを恐れたのと、拷問に参加した若者たちは、 "彼女が本当に淫売で、性交によりをうつされると信じていた" のではないかと推測されている。 地下室への監禁 [ ] コーラのボトルの強引な挿入によりシルヴィアがするようになった結果、ガートルードは彼女をへ閉じ込め、それ以降、『洗い清め』と称してをかけて入浴させ、を生じた肌にを塗りこむようになった。 また、の使用も一切禁じられた。 そして、シルヴィアはしばしばの状態におかれ、食事もほとんど与えられず、時折、ガートルードと12歳の息子であるジョン・バニシェフスキー・ジュニアにより彼女自身のを食べるよう強いられた。 その頃、妹のジェニー・ライケンスは姉であるダイアナ・ライケンスへで連絡を取り、彼女とシルヴィアが体験している恐ろしい出来事の概要を伝え、姉にに通報するよう依頼した。 しかしダイアナは、ジェニーは単にバニシェフスキー家で叱られたのが嫌で、バニシェフスキー家ではなく自分と一緒に暮らしたいがために話をでっち上げていると考え、この手紙を無視したのだった。 この直後、ダイアナ・ライケンスは妹を訪ねたが、ガートルードは彼女がに入ることを拒絶した。 そのため、ダイアナは妹のジェニーを確認できるまで近くの家に潜み、その後に妹と接触した。 ジェニーは、ダイアナと話をすることが禁じられていることを語って走り去った。 この出来事に不安を抱いたダイアナはソーシャルサービスに連絡し、バニシェフスキー家で「シルヴィアは(物理的に)不潔な上に淫売だったので、この家から追い出したらそのまま走り去っていった」と説明を受けたことを伝えた。 ソーシャルワーカーがバニシェフスキー家にシルヴィア・ライケンスについて尋ねに行った時、ガートルードはジェニーにシルヴィアの居場所に関するをつかせた。 ジェニー・ライケンスは、ガートルードの言う通りにしない場合、姉と同様の目にあわせるとされていたため、本当のことを語った場合に受ける仕打ちを恐れて、ジェニーはソーシャルワーカーに、姉は実際に走り去ったのだと話した。 そのためソーシャルワーカーは事務所へ帰り、これ以上バニシェフスキー家へ行って調査を行う必要は無い、という内容の報告書を提出した。 殺害 [ ] 10月21日、ガートルードはジョン・ジュニアとコイ、ステファニーに、シルヴィアを地下室から運び出してに縛り付けるように指示した。 翌朝、ガートルードはシルヴィアがベッドで失禁したことで激怒し、再びシルヴィアの膣にコカコーラの瓶を強引に挿入し 、赤く熱したでに " 私は淫売で、そのことを誇りに思う(I'm a prostitute and proud of it)"と刻み付けた。 ガートルードは1人で文章を刻み付けきれなかったので、リッキー・ホッブスに残りの文字を刻ませた。 翌日、ガートルードはシルヴィアを叩き起こし、両親へのの手紙を意図した文章を書かせた。 シルヴィアが手紙を書き終えると、ガートルードはジョン・ジュニアとジェニー・ライケンスに、シルヴィアを近所のゴミ捨て場に連れて行き、彼女がそこで死ぬように置き去りにするという計画を述べた。 それを漏れ聞いたシルヴィアは、を試みて階段を走り降りたが、の扉を飛び出したところでバニシェフスキーに取り押さえられた。 ガートルードはシルヴィアを家の中へ引きずり込み、再び階段から突き落として地下室へした。 それ以降、食べ物はしか与えられなかった。 10月24日、バニシェフスキーは地下室へ赴き、用の木製のヘラ(paddle)でシルヴィアを殴打しようと試みた。 しかし、バニシェフスキーはシルヴィアを打ち損ない、外れたヘラは偶然に彼女自身に当たった。 コイ・ハバードはシルヴィアの身体を踏みつけ、の柄で部を幾度も強打したため、彼女は地下室で昏倒した。 10月26日火曜日の夕方に、バニシェフスキーは子供達に、シルヴィアを(今回は熱湯ではなく)生ぬるい湯に入れてやるよう命じた。 ステファニー・バニシェフスキーとリチャード・ホッブスは、シルヴィアを地下室から上の階へ運び、服を着せたまま湯の入ったバスタブに放り込み、その後、服を脱がせて床のマットレスの上に全裸の状態で寝かせた時点で、シルヴィアが息をしていないことに気づいた。 ステファニー・バニシェフスキーは蘇生処置を試みたが、シルヴィアは蘇生することなく死亡した。 ステファニーはパニックに陥り、ホッブスに警察へ通報するよう命じた。 警察が到着すると、ガートルードはシルヴィアに強引に書かせた手紙を提出した。 その手紙には、体操服の窃盗を除いて彼女が実際には行っていない様々な悪事の自白や、『シルヴィアが少年グループから金銭を貰う代わりにすることに合意したが、少年たちの車で連れ回されたうえ、幾度も殴られ、煙草の火で火傷させられて、腹部に文字を刻まれた』という内容の文章が記されていた。 しかし、ジェニー・ライケンスが警官の1人に「ここから私を連れ出して。 何だって話しますから。 (Get me out of here and I'll tell you everything)」と囁き、保護されたことで事件が明らかとなった。 ジェニーの証言によってシルヴィアのが発見されたことから、警官たちはバニシェフスキー家のガートルード、ステファニー、ポーラ、ジョンのほか、リチャード・ホッブスとコイ・ハバードをシルヴィア・ライケンスへの殺人容疑でした。 その他の近所の若者である、マイク・モンロー、ランディ・レッパー、ジュディ・ルーク、アンナ・シスコー(Anna Siscoe)は、容疑で逮捕された。 公判 [ ] バニシェフスキー家のガートルード、ステファニー、ポーラ、ジョンのほか、リチャード・ホッブスとコイ・ハバードには、裁判までが認められなかった。 シルヴィア・ライケンスの遺体には、多数の火傷やのほか、やへの損傷が見られることが報告より明らかとなり、さらに、シルヴィアは断末魔の苦痛の中でが殆ど断裂するほど強く噛み締めていたことが判明した。 また、は腫れ上がってほとんど閉じていたが、膣管を検査した結果、シルヴィアのは損傷を受けていなかったことから、ガートルードによるシルヴィアは淫売でありしているとの主張には信憑性に強い疑いが持たれた。 なお、直接の死因はと、および過酷且つ長期にわたるへの損傷によるが原因であった。 公判では、ガートルードはを理由に無罪を訴え、また、欝や喘息などの病気がひどく、子供たちの管理などできなかったと主張した。 一方、ポーラ、ジョン、ホッブズ、ハバードらを担当したらは、彼らはガートルードに強制されて犯行を行ったのだと主張した。 ガートルードの11歳の娘であるマリー・バニシェフスキーは、弁護側のとして裁判所に出廷したが、彼女は取り乱して、ホッブスが焼けた針でシルヴィアの腹部に強引に文字を刻んだことと、ガートルードがシルヴィアを殴打し、地下室へ監禁したのを目撃したことを認めた。 マリーの陳述が終了する際に、被告の弁護人は「私は、ガートルードが殺人を犯したことを非難する……しかし、心神喪失であった彼女に責任は無い!(I condemn her for being a murderess... but I say she is not responsible because she is not all here! " )」と述べ、頭を軽く叩いた。 1966年5月19日、ガートルードは第一級殺人により有罪となったが、を免れてなしのの判決が下された。 また、ガートルードの娘のポーラは公判中に女児を出産し、母親と同じ名前の"ガートルード(Gertrude)"と命名した。 判決は第二級殺人による有罪で無期懲役であった。 ホッブズ、ハバード、ジョンも故殺で有罪となり、それぞれ懲役2年から21年の判決を受けてへ送られた。 1971年に、ガートルード・バニシェフスキーと娘のポーラはを行った。 控訴審でポーラは故殺を主張し、控訴審の判決から2年後に出所した。 また、ガートルードは第一級殺人により有罪となったが、判決は18年のであった。 仮釈放時の騒動 [ ] 18年間のでの生活においてガートルードは、裁縫工場で働き、若い女性受刑者の役(den-mother)を務める模範囚であった。 1985年に仮釈放を受けた頃には、ガートルードの刑務所内では"ママ(Mom)"のニックネームで知られていた。 ガートルードの仮釈放に関するニュースは、インディアナ州の社会に大きな波紋を与えた。 ジェニー・ライケンスとその家族は、テレビに出演してバニシェフスキーへの批判を行った。 2つの犯罪対策グループのメンバーが、罪の無い人を守り、に反対する連盟を結成して、インディアナ州を回ってガートルードの仮釈放に反対しながらライケンス一家の支援を行い、歩道でのピケ活動を始めた。 2ヶ月の間にこのグループは、ガートルードの仮釈放に反対するをインディアナ州の市民から4,500件も集めたが、これらの努力にも関わらず、ガートルードの仮釈放は認められた。 仮釈放のためのの席で、ガートルードは「 あの事件で私がどんな役割をしたかは分からない……クスリを常用していたから。 私は本当の彼女を知らなかった……でも、シルヴィアの身に起きたことについては全ての責任を私が負います。 (I'm not sure what role I had in it... because I was on drugs. I never really knew her... I take full responsibility for whatever happened to Sylvia. )」と述べている。 その後 [ ] ガートルードは1985年12月4日に出所し、旧姓に戻したうえファーストネームを捨ててナディーン・ヴァン・フォッサン(Nadine van Fossan)へと改名し、アイオワ州へ移住した。 1990年6月16日、アイオワ州で肺ガンにより60歳で死去した。 当時、既に結婚してインディアナ州に住んでいたジェニー・ライケンスは、ガートルードのを新聞で知り、記事の切抜きに "良いニュースだ。 忌々しいガートルードの婆さんが死んだ。 私は満足だよ、ハハハ!(Some good news. Damn old Gertrude died. Ha ha ha! I am happy about that. )" と記したメモを付けて母親へ郵送した。 その後、ジェニー・ライケンスは2004年6月23日に心筋梗塞により54歳で死去した。 インディアナ州東ニューヨーク通り3850番(3850 East New York Street)にあった、シルヴィア・ライケンスが拷問され、殺害される事件があって以降、44年間に渡り荒れ果てた空き家であった家は、2009年4月23日についに取り壊された。 跡地は教会の駐車場になる予定であるという。 なお、()の後、ジョン・バニシェフスキー(現在はジョン・ブレイクとして知られる)は、"若年の犯罪者は手の施しようの無い存在ではない。 彼らは人生の方向転換が可能なのだ。 " と主張する声明を出した。 この事件に関連した書籍 [ ]• 作家のナッティ・バンポー Natty Bumppo、過去の筆名(John Edwin Dean)として知られる は、事件について概説した書籍 House of Evil: The Indiana Torture Slaying を執筆した。 Patte Wheat の著作、 By Sanction of the Victim は、この事件を下敷きにし、時代設定を1970年代とした作品である。 フェミニストのは、この事件と関連する半フィクションの書籍 The Basement: Meditations on a Human Sacrifice を執筆した。 なお、ミレットはシルヴィア・ライケンス殺害事件に関するインタビューを受けて「これは女性へのの物語だ。 ガートルードは、真実且つ何らかの恐ろしい正義をこの少女に施したかったように思える。 それは、彼女が女性になるのに必要な事であったのだ。 (It is the story of the suppression of women. Gertrude seems to have wanted to administer some terrible truthful justice to this girl: that this was what it was to be a woman. )」と述べている。 メンダル・ジョンソン(Mendal Johnson)の唯一の著作 Let's Go Play at the Adams は、この事件に基づいて書かれている。 の小説、(原題:The Girl Next Door)は、この事件の大まかな出来事に基づき、舞台を1950年代に設定したフィクション作品である。 2007年には、書籍の内容に基づき、(Blythe Auffarth)が主役を演じた同名のが公開されている• 2007年ので初公開された映画(原題:An American Crime)では、ガートルード・バニシェフスキーをが、シルヴィア・ライケンスを が、コイ・ハバードをがそれぞれ演じた。 ジャネット・マクレイノルズ作の『ヘイ、ルーブ』( Hey, Rube,)という題名の芝居がプロデュースされたが、出版には至らなかった。 脚注 [ ]• ; Time Magazine, 27 May 1966• ; Crime Library. com• ; Crime Library. com• ; Time Magazine, 6 May 1966• com• Crime Library. Access date: November 14, 2007. com• ; Crime Library. com• The Indianapolis Star, Linda Graham Caleca 4-3-99. 2009年6月8日閲覧。 WIBC. 2009年6月29日閲覧。 ; Crime Library. com• Dean, John 2008-07-29. Martin's True Crime Library. New York Times. 14 January 2007. Wheat, Patte 1976. Major Books. Johnson, Mendal 1974-01-01. Panther. Regensberg, Pam 1997年3月8日. Longmont, Colorado Times-Call. 2009年11月25日閲覧。 参考資料 [ ]• Dean, John Edwin. The Indiana Torture Slaying: Sylvia Likens Torture and Death. 1999. Millett, Kate. The Basement: A True Story of Violence in an American Family. 1979. May 20, 1966. "5 Are Convicted In Torture Death; Mother and 4 Teen-Agers Guilty in Girl's Slaying". Indianapolis, May 19, 1966 UPI A Criminal Court jury today found Mrs. Gertrude Baniszewski, 38-year-old mother of seven, guilty of first degree murder in the torture slaying of Sylvia Likens, 16. Four teenage defendants were convicted on lesser charges. New York Times. May 25, 1966. "2 in Torture Death of Girl Are Sentenced for Life". Indianapolis, May 24, 1966 AP. Two defendants in the torture slaying of Sylvia Likens got life sentences today in the Indiana Women's Prison. Three others were sentenced to the Indiana Reformatory for terms of 2 to 21 years. 外部リンク [ ]• 日本語、ガートルードが強制的に書かせた手紙の内容が掲載されている• 日本語.

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