市川一家4人殺人事件 関光彦 写真。 関光彦・上田美由紀・松井喜代司 死刑囚の死刑執行~2017リスト

【感想・ネタバレ】19歳 一家四人惨殺犯の告白のレビュー

市川一家4人殺人事件 関光彦 写真

犯人の関光彦は地元では有名な不良で有名でした。 ケンカ、喫煙、飲酒、万引き、窃盗を繰り返すようないかにもな不良でした。 働き者の祖父の援助を得ながら関一家は暮らしていました。 働き者の祖父は鰻屋を経営していて、関光彦も働きながら生活していました。 関光彦はお金を稼ぐために働いていたのではなく、「なぜ祖父はこんなに働いているんだろう」ということで働いていました。 不良であった関光彦は鰻屋で働くのも長続きせず、不良仲間とつるんだり、夜遊びに耽っていました。 たまたま仲間と行ったフィリピンパブで一人のフィリピン人女性と仲良くなり、恋に落ちます。 フィリピン人女性は妊娠、フィリピンで子どもを産むとフィリピンに帰ります。 帰るとそのパブで別のフィリピン人女性と遊んでしまいます。 そこで乱暴な関光彦は自宅へ監禁と乱暴をします。 女性は2日後にお店へ戻りますが、お店側が暴力団に頼み「落とし前」をつけるように頼み関光彦は200万円請求されてしまいます。 関光彦は暴力団員にリンチされます。 むしゃくしゃした関光彦は夜、道を歩いていた女性を暴行し強姦します。 この事件も関光彦逮捕後に追起訴されています。 お金のない関光彦はどうにか工面する方法を探しました。 関光彦は強盗や脅迫、空き巣をしてお金を巻き上げることにしました。 そこで狙いをつけたのがこの「市川一家4人殺人事件」の被害者となる家族でした。 父親の会社には長女と関光彦の二人で向かいます。 マンションを出たところで長女を待たせ、思い出したかの様にマンションに戻ります。 通報を防ぐために父親を殺害するためです。 関光彦は父親をを包丁で一突きで刺し、殺害しました。 そして自分の車で会社に向かいました。 深夜の事でした。 通帳と印鑑と現金を受け取ります。 その後、関光彦は長女を強姦するためにホテルに行き、強姦します。 強姦してから4時間寝てまた強姦したといわれています。 長女は関光彦に合計5回強姦されたそうです。 その後はまたマンションに戻ります。 戻ると妹が泣き叫んでいて近所にばれると嫌だと、殺害します。 包丁で一刺し、包丁は妹の胸を貫通したそうです。 それでも痛い痛いと生きていてうるさかったと首を絞めて殺害しました。 この時、初めて長女が反抗したことに腹を立て、長女にも襲いますが全治2週間ほどのケガでした。 関光彦は女子高生コンクリート詰め殺人事件が未成年の犯行で犯人が重い罪に問われなかったことから、自分もそうであろうと余裕でな気分でした。 本人は「少年院は何年かな」という感覚でした。 平成6年の千葉地裁の判決は死刑でした。 「お金の工面という動機でも酌量の余地なし。 犯行時が少年だったということを考慮しても4人を残虐に殺人したことは極めて重大」とのことでした。 その後上訴しますが、平成13年に死刑が確定しました。 法律では未成年でも犯行時に18歳以上であれば死刑判決できますし、死刑執行もできます。 戦後少年死刑囚の死刑執行は40数名ですが、最近のほとんどの少年死刑囚の死刑執行の多くはまだのようです。 死刑執行はしておりません。 死刑執行を待たれる声がかつてはありましたが、世間の関心度は薄まっています。 死刑執行されずに私たちの税金で生きている意味はあるのでしょうか。 死刑執行が早く済むことを願います。 関光彦は1977年1月生まれです。 現在は40歳です。 祖父は鰻屋チェーン店の経営者でした。 祖父は反対しましたが、娘さんは結婚しました。 遊び人で不真面目そうな相手に鰻屋一筋仕事一筋の祖父は大反対していました。 結果、借金ばかり作り浮気もDVもする人で離婚しています。 その後は祖父の支援を受けたり受けられなかったりで貧乏な生活をしていました。 次第に母である祖父の娘も光彦に暴力をするようになりました。 そして、貧乏な生活故にいじめを受けるようになってしまいました。 ここで光彦の性格がひねくれてしまったようです。 中学を上がるときには祖父も娘や光彦には甘くなりました。 学力も運動もできる光彦に周りも将来を期待していました。 ですが、表向きは真面目でしたが、裏では不良とつるみ地元で評判の悪い不良でした。 その後、少し離れた高校に進学しますが、素行不良で退学となります。 退学になった後は祖父の鰻屋を手伝います。 お金稼ぎではなく働き者の祖父がどんな気持ちで鰻屋で働くかを知るためでした。 ですが次第に、出勤時間は遅くなり、来なくなるようになりました。 そのことで口論になった祖父に暴力をふるいます。 祖父は倒れたところ、顔を蹴られ、左目に直撃、左目の眼球破裂をして失明してしまいました。 祖父は不良や荒くれものを更生させたい意欲のある人で、鰻屋の従業員も元不良の人が多くいました。 そこで、犯罪のやり方などよくない情報を知ったと後に語っています。 18歳の時に鰻屋の従業員仲間とフィリピンパブへ行き、そこで恋に落ち事件が始まっていきます。 関光彦は壮絶な生い立ちで父親譲りの酷い性格でした。 光彦逮捕後にインタビューで甘やかしたことを後悔しているといっています。 生い立ちの悪さが関光彦を狂わせてしまったのでしょうか。

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市川・一家4人殺害事件

市川一家4人殺人事件 関光彦 写真

まだ本当に日本でも死刑執行が行われているのか?という方も居るかもしれませんが、残念ながら死刑執行は今だに日本でも実際に行われています。 法務省の発表で死刑囚の市川市で一家4人殺害し強盗殺人に問われていた、当時19歳の関光彦死刑囚の死刑執行を発表し、少年法のについての改正についても今後検討していく必要が有ることを考え直したいキッカケのニュースになりました。 死刑執行の方法や死刑執行の際の不手際による失敗なども有るのでは? なども憶測として有るかと思いますが、死刑執行当日にどのようなことが行われているのかも含めてご紹介して行きたいと思いますので、見逃すことなくチェックしてみて下さいね! 2017年の死刑執行の死刑囚のリストと生い立ちなどについて• 1992年に千葉県市川市で会社役員市川一家4人を殺害した元死刑囚の関光彦 死刑執行 世界仰天ニュースで紹介された様ですが、関光彦は暴行、窃盗、強姦、やナイフや警棒の所持をしている程に凶悪だったといいます。 関光彦死刑囚の生い立ちとしては、父親のギャンブルや酒癖、暴力などの劣悪な環境で育ち、家庭崩壊を経験している。 その後に自分の祖父の顔面を蹴り失明させたり母や兄弟に向けて容赦なく暴力を振るう様な少年だったという。 事件の発端となったのは、ホステスを監禁したことで暴力団から200万円の慰謝料等を請求され「たまたま出くわした15歳の少女」が関光彦と出会ってしまい監禁強姦し、少女が住む自宅マンションに押し入り、15歳の少女の家族を惨殺して少女の父親を刺して200万円を要求して、会社に通帳が有るということで少女に取りに行かせている間に少女の父親も殺害していた。 そして逮捕後も反省の色もなく「未成年なので楽勝でしょう」、と語っていたといいますが、最高裁も「少年という事を考慮しても死刑は免れない」という判断が下り死刑判決が決定していた。 1994年に群馬県安中市で親子3人を殺害した松井喜代司死刑囚 死刑を執行 松井喜代司死刑囚の生い立ちとしては、父親の女癖が悪く愛人に子供を産ませたり兄弟の妻にも手を出すような性格だったようです。 そして父親の似たところもあり、女性の強姦殺人を起こし性犯罪者の殺人者となってしまっている。 死刑囚の生い立ちなどは成長段階での「環境が関係している可能性が高い」とも言えますが、理由は全ては自分の強行の結果でしかないと思われます。 松井喜代司死刑囚は、当時交際していた女性や交際女性の両親を殺害し死刑判決を受けていたが再審請求中だったとのこと。 関光彦死刑囚と松井喜代司死刑囚ともに再審請求中だったにも関わらず死刑が執行されたことから再審請求中でも死刑執行になるということが今回の事で分かる。 鳥取連続不審死事件を「ザ! 世界仰天ニュース」で紹介された上田美由紀死刑囚 死刑執行 上田美由紀死刑囚の生い立ちとしては、幼い頃から母親から酷い虐待を受けて育っていたそうで、発育環境からも上田美由紀死刑囚は日常的な素行も悪かったということです。 本名が李美由で在日朝鮮人の5人子供が居るシングルマザーでもあり鳥取のスナックで働いていた上田美由紀死刑囚の近くにいた男性が連続不審死を遂げてしまいました。 上田美由紀死刑囚の犯行の手口としては、睡眠薬を使い男性を水に沈ませて殺害するという手口でした。 死刑執行当日のことや死刑失敗などのことはなるのか?について 死刑執行当日は、死刑囚は仏の間のある部屋に通されてお香を炊かれお経を上げられている中で死刑執行の命令書を読み上げられて最後にタバコなどを吸うことも許されるという。 そして死刑執行に関しては日本では絞首刑となり、約30分間吊るされたままで処刑されることになる。 絞首刑なので、死刑に失敗するような事がないように首の骨が折れて即死状態になるか、吊るされたままの状態で放置されることになるので窒息死になるかになるかと思われますので、死刑に失敗するという事例はないかと思われます。 今後少年法の改正や、刑の厳罰化などが進んでいるので死刑判決が増えることも予想されますが被害者の遺族や家族などの心の傷は生涯言えることが有りません。 関光彦死刑囚のように、当時は少年だから少年院で数年暮せばすぐに出られると思っている様な悪質で反省の色を見せない犯罪者を出さない為にも刑の厳罰化を進目ていくのかもしれない。 いずれにしても、日本は死刑制度が有るので今の日本でも死刑は行われている現実を良い悪いという問題も有るが真摯に受け止めて、より良い日本にしていく必要があるのではないでしょうか。 北海道・東北 北海道・根室市・釧路市・帯広市・網走市・稚内市・留萌市・旭川市・函館市・室蘭市・札幌市・岩見沢市| 青森県・平川市・つがる市・むつ市・三沢市・十和田市・五所川原市・黒石市・八戸市・弘前市・青森市| 秋田県・鹿角市・湯沢市・能代市・横手市・にかほ市・由利本荘市・北秋田市・大館市・仙北市・大仙市・潟上市・男鹿市・秋田市| 岩手県・二戸市・久慈市・ 陸前高田市・大船渡市・宮古市・釜石市・遠野市・北上市・花巻市・一関市・奥州市・滝沢市・八幡平市・盛岡市| 山形県・鶴岡市・酒田市・長井市・南陽市・米沢市・新庄市・尾花沢市・東根市・天童市・村山市・上山市・寒河江市・山形市| 福島県・会津若松市・喜多方市・いわき市・南相馬市・相馬市・白河市・田村市・須賀川市・郡山市・本宮市・二本松市・伊達市・福島市| 宮城県・仙台市・角田市・白石市・岩沼市・名取市・多賀城市・塩竈市・富谷市・大崎市・東松島市・石巻市・栗原市・登米市・気仙沼市 関東 群馬県・沼田市・桐生市・太田市・館林市・みどり市・高崎市・藤岡市・富岡市・安中市・前橋市・伊勢崎市・渋川市| 栃木県・下野市・那須烏山市・さくら市・那須塩原市・矢板市・大田原市・真岡市・小山市・日光市・鹿沼市・佐野市・栃木市・足利市・宇都宮市| 茨城県・下妻市・桜川市・結城市・坂東市・常総市・筑西市・古河市・くばみらい市・かすみがうら市・稲敷市・守谷市・石岡市・龍ケ崎市・牛久市・取手市・土浦市・つくば市・行方市・鉾田市・潮来市・鹿嶋市・小美玉市・笠間市・水戸市・那珂市・常陸大宮市・北茨城市・高萩市・常陸太田市・ひたちなか市・日立市| 埼玉県・さいたま市・秩父市・行田市・本庄市・東松山市・川越市・所沢市・春日部市 ・朝霞市・鴻巣市・北本市・桶川市・上尾市・戸田市・蕨市・ 川口市| 千葉県・南房総市・袖ケ浦市・富津市・君津市・鴨川市・木更津市・館山市・いすみ市・山武市・勝浦市・茂原市・網白里市東金市・八街市・四街道市・八千代市・習志野市・佐倉市・市原市・千葉市・匝瑳市・銚子市・旭市・香取市・富里市・印西市・白井市・成田市・野田市・流山市・我孫子市・柏市・松戸市・鎌ケ谷市・浦安市・船橋市・市川市| 神奈川県・横浜市・川崎市・相模原市・南足柄市・小田原市・伊勢原市・秦野市・茅ヶ崎市・平塚市・藤沢市・綾瀬市・座間市・海老名市・大和市・厚木市・三浦市・逗子市・鎌倉市・横須賀市| 東京都・東京23区(港区・新宿区・品川区・目黒区・大田区・世田谷区・渋谷区・中野区・杉並区・練馬区・台東区・墨田区・江東区・荒川区・足立区・葛飾区・江戸川区・千代田区・中央区・文京区・豊島区・北区・板橋区) 中部 三重県・熊野市・尾鷲市・志摩市・鳥羽市・伊勢市・松阪市・津市・名張市・伊賀市・亀山市・鈴鹿市・四日市市・桑名市・いなべ市| 岐阜県・下呂市・飛騨市・高山市・土岐市・恵那市・瑞浪市・中津川市・多治見市・郡上市・可児市・美濃加茂市・美濃市・関市海津市・大垣市・本巣市・瑞穂市・山県市・各務原市・羽島市・岐阜市| 静岡県・静岡市・浜松市・菊川市・御前崎市・湖西市・袋井市・掛川市・磐田市・牧之原市・藤枝市・焼津市・島田市・伊豆の国市・伊豆市・下田市・熱海市・伊東市・三島市・裾野市・富士宮市・御殿場市・沼津市・富士市| 愛知県・名古屋市・弥富市・半田市・日進市・長久手市・豊明市・常滑市・東海市・津島市・知多市・瀬戸市小牧市・江南市・清須市・北名古屋市・尾張旭市・大府市・岩倉市・犬山市・稲沢市・あま市・愛西市・春日井市・一宮市 甲信越・北陸 福井県・小浜市・越前市・鯖江市・敦賀市・勝山市・大野市・坂井市・あわら市・福井市| 石川県・珠洲市・羽咋市・輪島市・七尾市・かほく市・能美市・野々市市・加賀市・小松市・白山市・金沢市| 富山県・南砺市・小矢部市・砺波市・氷見市・射水市・高岡市・黒部市・魚津市・滑川市・富山市| 長野県・茅野市・諏訪市・岡谷市・飯田市・駒ヶ根市・伊那市・大町市・安曇野市・塩尻市・松本市・東御市・上田市・小諸市・佐久市・千曲市・須坂市・長野市・中野市・飯山市| 山梨県・中央市・甲州市・上野原市・北杜市・笛吹市・甲斐市・南アルプス市・韮崎市・大月市・山梨市・都留市・富士吉田市・甲府市| 新潟県・新潟市・佐渡市・胎内市・阿賀野市・五泉市・燕市・村上市・新発田市・南魚沼市・魚沼市・見附市・十日町市・加茂市・小千谷市・柏崎市・三条市・長岡市・妙高市・糸魚川市・上越市・新宮市・田辺市・ 御坊市・有田市・橋本市・岩出市 関西 和歌山県・紀の川市・海南市・和歌山市 ・宇陀市・葛城市・香芝市・生駒市・御所市・五條市| 奈良県・奈良市・桜井市・橿原市・天理市・大和郡山市・大和高田市・京丹後市・宮津市・綾部市・舞鶴市・福知山市・南丹市| 滋賀県・高島市・長浜市・彦根市・近江八幡市・東近江市・湖南市・甲賀市・野洲市・栗東市・守山市・草津市・大津市| 京都府・京都市・亀岡市・木津川市・八幡市・城陽市・宇治市・長岡京市・向日市・淡路市・南あわじ市・洲本市・朝来市・養父市・豊岡市| 兵庫県・神戸市・丹波市・篠山市・宍粟市・赤穂市・たつの市・相生市・姫路市・加東市・加西市・小野市・三木市・西脇市・高砂市・加古川市・明石市・三田市・川西市・宝塚市・伊丹市・芦屋市・西宮市・尼崎市| 大阪府・大阪市・堺市・大阪狭山市・藤井寺・市羽曳野市・松原市・河内長野市・富田林市・柏原市・交野市・四條畷市・門真市・大東市・守口市・阪南市・泉南市・泉佐野市・貝塚市・高石市・和泉市・泉大津市・摂津市・池田市・八尾市・寝屋川市・岸和田市・茨木市・吹田市・東大阪市・枚方市・高槻市・豊中市 中国 山口県・山陽小野田市・周南市・美祢市・柳井市・長門市・光市・岩国市・下松市・防府市・萩市・宇部市・下関市・山口市| 鳥取県・境港市・米子市・倉吉市・鳥取市| 島根県・大田市・益田市・江津市・浜田市・雲南市・出雲市・安来市・松江市| 岡山県・新見市 ・美作市 ・真庭市・高梁市・津山市・浅口市・井原市・笠岡市・赤磐市・瀬戸内市・ 備前市・総社市・倉敷市・玉野市・岡山市| 広島県・庄原市・三次市・府中市・福山市・三原市・尾道市・竹原市・東広島市・安芸高田市・江田島市・呉市・大竹市・廿日市市・広島市 四国 高知県・四万十市・土佐清水市・宿毛市・須崎市・土佐市・香南市・香美市・南国市・高知市・安芸市・室戸市| 愛媛県・西予市・大洲市・八幡浜市・宇和島市・東温市・伊予市・松山市・今治市・西条市・四国中央市・新居浜市| 香川県・高松市・坂出市・丸亀市・善通寺市・観音寺市・三豊市・東かがわ市・さぬき市| 徳島県・三好市・阿南市・阿波市・吉野川市・小松島市・鳴門市・徳島市 九州・沖縄 鹿児島県・奄美市・西之表市・志布志市・曽於市・垂水市・鹿屋市・姶良市・伊佐市・霧島市・出水市・阿久根市・薩摩川内市・南九州市・南さつま市・指宿市・枕崎市・いちき串木野市・日置市・鹿児島市| 宮崎県・宮崎市・えびの市・西都市・串間市・日向市・小林市・日南市・延岡市・都城市| 大分県・大分市・臼杵市・津久見市・由布市・別府市・杵築市・国東市・中津市・豊後高田市・宇佐市・日田市・佐伯市・竹田市・豊後大野市| 佐賀県・佐賀市・多久市・小城市・神埼市・玄海町・鳥栖市・伊万里市・武雄市、鹿島市、嬉野市| 長崎県・長崎市・諫早市・大村市・五島市・対馬市・壱岐市・雲仙市・南島原市・島原市・平戸市・松浦市・西海市| 熊本県・熊本市・合志市・荒尾市・宇土市・玉名市| 福岡・福岡市・久留米市・飯塚市・大牟田市・柳川市・春日市・大野城市・筑紫野市・行橋市・前原市・北九州市| 沖縄県・沖縄市・那覇市・名護市・うるま市.

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市川一家4人殺人事件の犯人「関光彦死刑囚」や生き残った長女の現在とその後

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: 標的 事件の1か月前に強姦した女子高生一家5人(を参照) 日付 (4年) - 16時30分ごろ — 9時ごろ 〈・JST〉 概要 1992年2月、組員から200万円を要求された少年(当時19歳)が行きずりの少女を強姦して身分証明書を脅し取った。 その1か月後となる1992年3月、加害者少年はその少女が住むマンションの一室に強盗目的で押し入って住民一家(少女の家族)5人のうち少女を除く4人を次々に絞殺・刺殺した。 その間に少年は金品を被害者宅・勤務先から奪いつつ少女を長時間監禁してさらに強姦した。 攻撃手段 電気コードで首を絞める・柳刃包丁で刺す 攻撃側人数 1人 武器 電気コード・刃渡り22. 5 の1本(平成5年押収第52号の1) 死亡者 4人 負傷者 1人 損害 現金約34万円・預金通帳計9冊(額面合計424万3,412円)・印鑑7個 犯人 少年S(事件当時19歳) 容疑 ・・・・・・ 動機• 侵入の動機 - 暴力団から要求された200万円を工面するため(窃盗目的で侵入)• 作家・(祝康成)が加害者少年と交流して本事件関連の著書(参照)を出版した。 管轄 (県警本部・ ) ・ 市川一家4人殺人事件(いちかわいっかよにんさつじんじけん)は(4年)夕方から翌朝にかけて二丁目(地区)にあるマンションで発生した・・などの事件。 加害者少年S(事件当時19歳)はと女性関係を巡るトラブルを起こし、暴力団から要求された現金200万円を工面する目的で事件1か月前に強姦した少女(事件当時15歳)宅のマンションに侵入して一晩で少女の両親・祖母・妹の一家4人を殺害した。 また、少女の家だけでなく両親が経営していた会社からも金品を奪い、殺害現場で1人残された被害者遺族の少女を強姦した。 平成のでは初の・事件()となった本事件は 日本社会を震撼させ 衝撃を与えるとともに 、その重大性からの在り方などに論議を呼んだ。 加害者・被害者 [ ] 元死刑囚S [ ] S・T (記事中では仮名「S」と表記) 生誕 1973-01-30 ・ 死没 2017-12-19 (44歳没) ・ () 出身校 (1988年3月に卒業) 職業 鰻の加工・販売業(祖父の家業) 罪名 ・・・・・・ 刑罰 (・) 動機 から要求された現金200万円を工面するため 有罪判決• ・(1994年8月8日宣告)• ・側判決(1996年7月2日宣告・死刑判決を支持)• 第二・被告人側棄却判決(2001年12月3日宣告・控訴審判決を支持) - 上告審判決への訂正申し立て棄却決定(2001年12月21日まで)により死刑判決 殺人 被害者数 5人(本件強盗殺人・殺人の被害者一家) 時期 1992年3月5日 - 6日 国 現場 千葉県市川市幸二丁目5番地 (マンション806号室) 死者 4人 負傷者 1人 凶器 電気コード・刃渡り22. 5 の(平成5年押収第52号の1) 逮捕日 1992年3月6日(銃刀法違反容疑で現行犯逮捕) 本事件の加害者少年 S・T(事件当時19歳)は (48年)1月30日・千葉県生まれ。 事件当時は千葉県二丁目在住。 刑事裁判で死刑が確定し、(平成29年)12月19日に・の死刑執行命令(2017年12月15日付)により 先・で(44歳没)。 本項目中では実名の姓に基づくイニシャル「S」と表記する。 18歳時点で身長・体重とも同じ18歳男性の平均をはるかに凌駕するまでに成長しており 、逮捕当時は身長178 cm ・体重80 kg と大柄な体格だった。 生い立ち [ ] の加工・販売業を営む母方の祖父X の長女・母親Yと、Yと結婚して義父Xの店で働き市川市内に在住していた元サラリーマンの父親Z の間に長男として出生した。 出生当時は市川市内に居住していたが、後に両親が同県内に転居したことから同市内で幼少期を過ごし 、Sは(昭和51年)には3歳で幼稚園に入園した。 (昭和54年)4月には転居先の松戸市内の小学校 に入学し、(昭和55年)9月には 東京都に転居したことから 同区内の小学校 に転校したが、父Zが莫大な借金を抱えて義父Xの経営する店に多大な損失を与えた上、暴力団員などによる厳しい借金の取り立てに遭った。 また、Zは結婚後に義父Xから店を1軒任されたが 、生活が落ち着いてくると仕事に精を出さずにギャンブル・飲酒・女遊びなどを優先するようになり 、愛人宅への外泊や妻Yに対する(DV) ・自身や弟への を繰り返したため 、Sは自宅を居場所と感じられなくなっていた。 Sは両親からの虐待に苦しんでいた中で敬虔な の信者だった親友から勧められたことがきっかけで聖書を勉強するようになったが、9歳の時に熱心に読んでいた聖書を父Zから「こんなくだらないものばかり読みやがって」と破り捨てられたことに激昂して初めて父親に歯向かい、殴る蹴るなど一方的な暴力を振るわれつつも復讐を誓った。 (昭和57年)12月 、当時小学4年生だったSは 母Y・弟(5歳年下)とともに夜逃げして のアパートへ移住した。 Sは(昭和58年)1月から に通学したが 、両親の離婚・生活環境の劣化・転校などから学校でを受けるなど、不遇な生育環境で不遇感を抱いて育った。 また、このころには唯一の庇護者だった祖父Xからも見放された ことで劣等感を募らせ 、万引きをするようになったほか 、放課後にはで観光客を標的に・・かっぱらい・泥棒などの非行を繰り返し「世の中は金が全てだ。 貧乏を笑うようなやつらからはいくら金を盗んでもいい」と考えるようになった。 中学時代以降 [ ] (昭和60年)4月には へ入学したが 、体格・腕力ともに大きく成長して同世代の少年を圧倒するようになったため 、それまでのように一方的にいじめられることはなく、やられたらやり返すようになるとともに「たいていの場合には自分の腕力が通用する」と知った。 また当時所属していた少年野球チームではエース投手兼4番打者として活躍していたが 、このころから地元の不良少年たちから喧嘩の強さを褒められ仲間に誘われた ことをきっかけに非行がエスカレートしていき、母親Y・弟への家庭内暴力を加えるようになった。 なおこのころには祖父Xも母親Yと関係を修復し 、Y一家はXから経済的な援助を受けつつ不自由なく暮らせるようになったが 、Sは祖父Xを「一番辛くて寂しい時に俺を裏切って助けてくれなかった」と恨んでおり、以前のように尊敬することはできなくなっていた。 中学卒業後の(昭和63年)4月には 普通科大学進学コースに入学したが 、わずか1年後の(平成元年)5月31日付で 中退した。 高校中退後(1989年11月ごろ以降)は祖父Xの経営していたウナギ加工・販売などの仕事を手伝っていたが 、店の売上金を複数回盗んだほか 、(平成2年)1月17日には祖父Xから盗みの疑いを掛けられたことに激怒し、22時ごろに祖父X宅へ赴き就寝中だったXの顔面を蹴るなど暴行を加え 、Xの左目を失明させる事件を起こした。 また鰻屋の同僚には不良が多く 、同僚たちから非行や喧嘩の方法を教わったほか 、自分を挑発してきた同年代の同僚に対する暴力沙汰も起こした。 また母や弟への ・仲間らとの徘徊行為・・を行うなど生活は荒れていった。 家庭内暴力に耐えかねた母親YはSを別居させるため 、1991年6月から契約金58万円余りを出して船橋市本中山のアパート で一人暮らしさせたが 、その後も近隣住民とのトラブルを起こしていた。 事件直前には本事件の被害者一家宅を知るきっかけとなった強姦事件を含め傷害・強姦・強姦致傷・恐喝・窃盗など多数の事件を起こしたほか 、このころには鰻屋も無断欠勤して辞めていたためほぼ無職の身だった。 女性関係 [ ] 中学生時代から女性経験があり 、中学3年時からは同級生の少女と交際していたが 、互いに深夜まで出歩いたり親の財布から金を抜き取るなどしていたため、高校中退後の秋になって少女の両親がSの母親Yに「うちの娘はSにたぶらかされたせいで悪くなった。 警察に訴えてやる」と苦情を入れてきた。 結果、互いの親同士が協力して2人を別れさせることになったが 、Sは少女の父親が彼女を自分から引き離そうと東北地方の親戚宅に預けたことに激怒し、ナイフで少女の父親を脅迫して少女を連れてくるよう迫ったことで違反に問われに書類送致された。 またアパートで独居を開始してからは3人の女性と同棲生活を試みたが、いずれも短期間で相手に去られたため長続きしていなかった。 その後、その女性とともにフィリピンまで赴いて1991年10月31日に正式に結婚し 、日本へ連れ帰って自宅アパートで同居していた。 しかし妻は姉の病気を心配して事件直前(1992年1月22日ごろ)にフィリピンへ帰国して 二度と日本に戻らなかった。 女性の帰国は夫Sの了承の下だったが、Sは「妻がいなくなったことで鬱屈した気分になった」ことから「新しい女性を引っ張り込もう」と考え、それが凶行の遠因となった。 被害者一家 [ ] 被害者一家は市川市幸二丁目の新興住宅街に建つ9階建てマンションに住んでいた。 千葉地裁 1994 は判決理由で被害者一家について「慎ましくも平穏な暮らしを営んでおり、本来ならば娘2人の成長を温かく見守りつつ会社の経営を盛り立てて平穏に生活できたはずの家庭」と述べている。 被害者男性Aは事件2年前の1990年ごろに寄稿していた料理雑誌『月刊食堂』()の元編集長・玉谷純作に対し「のペンションを買いたい。 ベルギーならにもにもすぐに行ける。 (事件の発生した)1992年にEC()統合があるのであちらに拠点を持って活動したい」と話していたが、その夢はSの凶行により断ち切られた。 被害者一家4人の葬儀を仕切ったは『東京新聞』記者の取材に対し「被害者4人の遺骨はA・Dそれぞれの親族に引き取られた」と証言した。 男性A(死亡) - (昭和25年)8月10日生まれ (41歳没)。 事件当日(1992年3月5日)21時40分ごろ(帰宅直後)にSにより背後から左肩を刺されて致命傷を負い、翌日(3月6日)0時30分ごろに再び包丁で背中を刺され出血多量で死亡した。 のカメラマンとして働いていた1985年(事件7年前)には写真週刊誌に掲載された()のプライベート写真を撮影したことがあったが 、結婚後は年ごろの娘を持つようになったためにそれまでの風俗関連から離れ 、事件直前まで妻Dと共に料理雑誌・旅行雑誌の仕事を中心にして レストラン・温泉地などの写真を撮影していた。 1986年ごろから後述の女性Dと同居を開始し 、(昭和62年)3月にDと結婚して継子の少女Bを養子にした。 同年8月には妻Dとともに行徳駅前のマンションを事務所として 雑誌の出版・編集などの業務を行う株式会社を設立して取締役を務めており 、社員を数人抱えていた。 少女B(負傷) - (昭和51年)3月19日生まれ (事件当時15歳)。 女性Dの長女で事件当時は船橋市内の県立高校1年生だった。 一連の事件では一家殺害事件から1か月前(1992年2月12日)に加害者Sのアパートまで拉致されてSに2回強姦され 、事件当日(3月5日)の帰宅直後から翌朝(Sが逮捕されるまで)までSにより自宅に監禁され、帰宅前に殺されていた祖母Cを除く家族3人(母D・父A・妹E)を目の前で惨殺されたほか、自身もその間に計3回 (事件前を含めて計5回)にわたり強姦される被害を受けた。 千葉地裁 1994 は判決理由にて被害者Bについて「目の前で家族を皆殺しにされ、自らもその凄惨な現場で被告人Sのともいうべき獣欲の犠牲に供されて凌辱され、Sの一挙一動に肝を潰して神経を擦り減らし、泣訴哀願して幸いにも一命をとりとめた、身も凍るような筆舌に尽くしがたい恐怖と戦慄を味わった」と述べている。 男性Aとは血縁関係はなく、母Dが離婚した前夫との間にもうけた子で 、DがAと再婚した際にAと養子縁組した養女だったが 、義父Aからも我が子同然に可愛がられていた。 共働きの両親に代わり10歳以上離れた妹Eを朝夕と保育園に送迎するなど 優しい性格で 、通学していた県立高校では演劇部・美術部などに所属してクラスの副委員長も務め 、将来は美術関係の大学進学を希望していたごく普通の女子高生だった。 事件後は両親の知人の下へ身を寄せ、事件1年後の1993年にの母方の実家へ引き取られた。 高校卒業後は故郷の熊本を離れて美術系大学へ進学(2000年春卒業)した。 (本名および旧ペンネーム:祝康成)の取材に対しては「事件のことは忘れないと前に進めないからもう忘れた。 (当時死刑判決を受け上告中だった加害者Sが)どんな刑を受けようとまったく関心はないが、極刑は当然だと思っている」と、知人に対しては「母のようなキャリアウーマンになりたい」と話していた。 その後、永瀬 2004 は女性Bのその後に関して「Sの死刑確定後の(平成16年)春に以前から交際していた男性と結婚して日本を離れ、生前の両親の夢であったヨーロッパで暮らしている」と述べている。 女性C(死亡)- 1908年(41年)7月4日生まれ (83歳没)。 男性Aの実母かつB・E姉妹の祖母で、事件当時は現場マンションにて息子夫婦・孫2人と同居していたが、高齢のため散歩に出るとき以外は玄関北側の自室で過ごしていたことが多かった。 事件当日16時30分ごろに自宅でSに首を絞められて窒息死し、一連の事件で最初の犠牲者となった。 女性D(死亡) - (昭和30年)6月19日生まれ (36歳没) ・出身。 事件当日19時ごろ、長女Bとともに帰宅した直後に室内に隠れていたSから襲撃され、Bの目の前で包丁で刺されて出血多量で死亡した。 地元の高校を卒業後に隣町の男性と恋愛結婚したが、その前夫は仕事に身が入らず遊び惚けていたため、長女Bを出産した直後に(当時20歳で)離婚した。 しかし前夫には慰謝料・養育費とも要求せず、誕生直後の娘Bを連れて「(Bは)自分1人で立派に育てる」と上京して証券会社事務職・建設会社経理職・ダンプカー運転手・水商売などと職を転々とした。 同居中にAとの第一子を妊娠するが流産してしまったため、後にEを妊娠した際にはAから「仕事は二の次でいいから体を大切にしろ」と注意されていた。 そして(昭和62年)3月に幼女Eを出産して男性Aと結婚(再婚)し 、1987年8月にはAとともに雑誌の出版・編集などの業務を行う株式会社 を設立して代表取締役に就任し 、1988年8月に夫Aとともに現場マンションへ引っ越し 、家庭ではB・E姉妹を養育していた。 幼女E(死亡) - (昭和62年)3月17日生まれ (4歳没)。 1992年3月6日6時30分ごろに姉Bの目の前でSにより包丁で刺され出血多量で死亡した。 A・D夫妻の長女だが 、Aには既に養子(Dの長女B)がいたため報道では「次女」とされることが多い。 姉Bの異父妹で、事件当時は市川市内の保育園に通う保育園児だった。 事件前の暴力的犯罪 [ ] Sは一家殺害事件前年の(平成3年)10月19日16時50分ごろ、愛車のロイヤルサルーン を運転して東京都の道路(祖父Xの経営するウナギ料理チェーン店の支店付近)を走行していた際、自分の前を走行していた車両(運転手:当時34歳男性)に対し「速度が遅い」と立腹した。 男性の車が赤信号に従って停車すると、Sはその車の運転席側へ駆け寄って「とろとろ走りやがって、邪魔じゃないか」などと怒鳴りつけ、開いていた窓から手を差し入れてエンジンキーを回しエンジンを停止させた。 男性が車を降りるとSは突然その顔面を拳で複数回殴りつけ、男性を支店の建物内へ連れ込み、店の厨房内に置かれていた鰻焼台用鉄筋(長さ約112 cm)で男性の背中・左肘を1回ずつ殴りつけ、男性に全治3週間の頭部・胸部・左肘への打撲、挫創の怪我を負わせた( 罪状その1・傷害罪)。 祖父Xは1992年1月ごろ、Sから危害を加えられることを避けるために店舗内で寝泊まりしていたが、Sはその店舗の窓ガラスを割って店内に侵入し、就寝中のXを起こし現金110万円などを奪い取った。 1992年2月6日、Sは市川市内のスナックバーに勤めるフィリピン人のホステスを連れ出して店に無断で自宅アパートに泊め 、このホステスと性的関係を持ち、ホステスをマンション自室に閉じ込めて負傷させた。 その2日後(1992年2月8日)、店に帰ったホステスがこのことを店の関係者に泣きながら訴えると、激怒した店の関係者が暴力団に「落とし前」を依頼したため、それ以降Sは暴力団に追われる身となった。 1992年2月11日4時30分ごろ 、Sは東京都に住んでいたバンド仲間のアパートからクラウンに乗って帰宅しようとしていた際 、の路上でアルバイト先から帰宅途中の当時24歳女性が1人で左側歩道上を歩いているのを見つけ、「鬱屈した気分を晴らすために女性を殴ろう」と考え、道を尋ねるふりをして女性に近づいた。 その直後、突然女性の顔を拳で思い切り数回殴りつけるなど暴行を加えて全治3か月半の傷害(鼻骨骨折・顔への擦り傷)を負わせた( 罪状その2・傷害罪)。 Sは座り込んだ女性の顔を見たところ「意外に若い」と思ったために「この女性を強姦しよう」と考え、女性の髪の毛を鷲掴みにして引っ立てると「車に乗れ」と脅して女性を抱きかかえるようにクラウンの後部座席に押し込み車を発進させた。 そして女性に対し「病院に連れて行く」などと言いつつ車を走行させ、船橋市本中山の自宅アパートに連れ込み、6時30分ごろに自室アパートで女性を全裸にして強姦した( 罪状その3・強姦罪)。 しかし同日夜、前述のホステスの件で自宅アパートに暴力団組員7人が押し掛けたため、Sはクラウンに乗車して逃げたが 、店から依頼されていた外国人ホステス斡旋業者らがSを車から引きずり降ろそうとクラウンの後部窓ガラスを叩き割った。 検察官は罪状2. および3. の傷害・強姦事件に関して「Sは当初から女性に対する強姦の犯意を抱いていたため、女性への一連の犯行は全体として強姦致傷罪の一罪に該当する」と主張したが、千葉地裁 1994 判決は「被告人Sは捜査段階・公判を通じて『女性に暴行を加えた後、顔を見て『意外に若い』と思ったから俄かに欲情を催して強姦の犯意を抱いた』と主張している。 その供述に反する証拠は見当たらず、客観的状況も供述と矛盾しない」ことを理由に「被告人が強姦の犯意を生ずる以前の傷害罪・その後行われた強姦罪の2罪がそれぞれ別々に成立する」と事実認定している。 被害者少女を強姦・脅迫 [ ] Sが通りすがりの女性を強姦してから約22時間後(1992年2月12日2時ごろ) 、夜遅くまで勉強していた少女Bは途中でシャープペンシルの替え芯が切れたため、替え芯を買いに自転車で自宅マンション付近のコンビニエンスストアへ行き、買い物を終えて帰宅しようとしていたところだった。 当時クラウンを運転していたSは帰宅途中だったBを見つけ、マンション前の狭い路地で背後から近づき、自転車の後輪にクラウンの左前部を衝突させた。 Bは自転車ごと路上に転倒して路上に投げ出され、右膝に擦り傷を負った。 車から降りたSはBに「病院に連れて行く」と優しく声を掛けた上で と訴えられないようBを車に乗せて内の救急病院で治療を受けさせた。 Bは当初こそSを警戒してはいたが、治療をさせてもらった後で「自宅まで送り届けてもらう」と約束されたことで安心した。 しかしSはBを自宅に送るために市川市・船橋市方面に向けて車を走行させていた途中でにわかに劣情を持ち 、人気のない路肩に停車し 、刃渡り約6. 7 cmの折り畳み式ナイフ(平成5年押収第52号の2)をBに突き付けた。 Sはナイフの刃をBの手の指の間にこじ入れてこね回しながら「黙って俺の言うことを聞け」と脅し 、抵抗したBに対し 左頬・左手を切り付けて顔面挫創・左手挫創の傷害(全治約2週間)を負わせた。 SはBをそのまま自分のアパートまで拉致し 、同日3時ごろ - 6時ごろまでの間に自室アパート内で2度にわたりBを強姦した( 罪状その4・強姦致傷罪)。 Sはその後、Bの手足を縛って抵抗を抑圧した上でBの所持品を物色して現金を奪ったが、その時にBが通っていた高校の生徒手帳を見つけ、住所・氏名を控えた。 しかしBはSがいったん外に出てから部屋に戻るまでの間に自力で逃げ出した。 その後、この同級生らから被害届を出すよう説得されたため、Bは1992年2月末ごろに() へ被害届を提出したが 、Sは顔見知りではなかったことなどから捜査線上に浮上しなかった。 彼女(ホステス)が在留期限を待たずに帰国したら店の損害は200万円になる」などと遠回しに金員の支払いを要求され、このトラブルに関して「それなりのことをするつもりだ」と答えてその場を辞去した。 しかし当時のSはいまさら暴力団員に支払う金員を祖父X・母親Yから出してもらうわけにはいかず、他に金策する当てもなかったため 、暴力団の取り立てを恐れてを続けており 、事件当日ごろには所持金も底を尽きていた。 Sは暴力団に脅されてから事件当日までの約20日間「このままだといずれ暴力団に殺されるかもしれない」と恐れていた一方、交通トラブルで2度の暴力・恐喝事件を起こした。 1992年2月25日(火曜日)5時ごろ、Sはクラウンを運転して旧道(市川市河原6番18号先)を走行していたところ、後ろを走っていた乗用車(運転手:当時22歳男性)から ために激昂し、クラウンを急停車させ 相手の進路を絶った。 後続車が停車した直後、クラウンを降車したSはトランクから鉄筋 (鰻焼台用鉄筋:全長約122 cm) を取り出して右手に握り、その鉄筋を威嚇するように1, 2回振り回してから後続車のドアを開け 、相手車の運転席に近づいて「煽ってんじゃねえよ」などと男性を恫喝し、空いていた運転席側の窓から手を差し入れて男性の車のエンジンキーを抜き取り 、相手の退路を絶った 上で自車に戻った。 これに激昂した男性はエンジンキーを取り戻そうとSに追いすがったが、Sは鉄筋で男性の左側頭部を1回殴りつけた。 男性は血まみれになり、両腕で頭を抱えてうずくまったが 、Sは男性に対し「お前のせいでブレーキパッドがすり減った」などと怒鳴りつけながら 男性の左半身を多数回殴打し、安静加療約10日間を要する頭部挫創の傷害を負わせた( 罪状その5・傷害罪)。 さらに男性から金品を恐喝しようと考えたSは暴力団組員を装って男性の車の運転席に乗り込み、同日5時過ぎごろ - 6時ごろまでの間にトラブルの現場から市川市二丁目31番地先の路上を経由して再びトラブル現場(市川市河原6番18号先)まで車を運転し、「俺たちの相場ではこういう場合は7, 8万円だ。 金曜日(2月28日)までに用意しておけ。 免許証はその時まで預かっておく」などと男性を脅迫して金品・運転免許証を出すように脅して金員を要求し、男性名義の自動車運転免許証1通を脅し取った( 罪状その6・恐喝罪)。 その2日後(1992年2月27日0時30分ごろ)、Sはクラウンを運転して(現:)東町一丁目7番26号路上を走行していたところ、乗用車(運転手:当時21歳の男子大学生)に追い越されたため立腹し、付近で赤信号のために停車した大学生の車の前方にクラウンを停車させて行く手を阻んだ。 そして大学生が降車すると「ヤクザ者をなめるな」などと脅迫しながらズボンのポケットから前述の強姦事件で使った折り畳みナイフ(平成5年押収第52号の2)を取り出して「これで刺してもいいぞ」と言い、大学生の左太腿を突き刺した。 その上でSは大学生の車の運転席に乗り込み、大学生を助手席に座らせ、自ら大学生の車を運転して岩槻市大字加倉1943番地路上まで移動した。 その間、Sは大学生に対し「お前が滅茶苦茶な運転をするから俺の車のタイヤが擦り減った」などと恫喝したが、脅迫の手ごたえがなかったことに激昂して「お前の親父のところに連れて行け」と大学生を脅迫したほか 、車内で大学生の身体20数か所(左右の大腿部・右肩・腕・背中など)をナイフで突き刺したり切りつけたりして全治約6週間を要する傷害(全身刺創・全身切創、右手第三指〈中指〉および第四指〈薬指〉伸筋腱断裂など)を負わせたが( 罪状その7・傷害罪)、大学生は血まみれになりながらも命からがら自分の車から逃げ出した。 Sは大学生の車で相手を追いかけようとしたが「轢き殺すとまずい」と思ったために断念し、後日金を脅し取ることにした上で 、大学生が逃げ出した後の同日1時20分ごろには岩槻市東町一丁目7番24号先路上に大学生から奪った車を移動させ、「住所・氏名を確認する目的」で車内にあった大学生名義の運転免許証1通・大学生の父親名義の自動車検査証を窃取し( 罪状その8・窃盗罪) 、大学生の車を運転して前述の現場に残した自車に戻った。 しかしSは暴力的な恐喝を繰り返しても暴力団から要求された額(200万円)を得られず、金の工面に困り恐怖・焦燥感を抱えていたため 「パチンコ店を襲おうか、強盗しようか」などと思案した末に、2月12日の強姦致傷事件の際に住所・氏名などを知っていた少女B宅に侵入して金品を盗むことを思いついた。 Bを強姦した事件以降、SはB宅の在宅状況を探る目的で時間を変えてB宅の電話番号へ何度か電話をかけた結果 「午後は留守か老女(殺害されたBの父方の祖母C)が1人でいる」と確認していたほか 、2月下旬・3月1日の2度にわたって現場マンションに赴き、マンションのエレベーターを使用して8階まで上がった上で「B宅は806号室にある。 マンション1階のエレベーターホールには防犯カメラが設置されている」ことなどを確認した。 事件当日 [ ] 現場マンション侵入 [ ] Sは事件当日(1992年3月5日)、既に所持金がほとんどなかったが朝からパチンコ・ゲームセンターで時間を潰したり、午後遅くに中華そば屋でラーメン1杯を食べたりした。 その後「B宅に侵入して現金・預金通帳などを窃取する」意思を最終的に固めた上で市川市幸のB宅に向かったが 、この時には「ついでにBを再び強姦すれば暴力団からの追い込みで鬱屈した気持ちも晴れるだろう」とも考えていた。 事件現場一帯はSの母方の祖父母の家(母親Yの実家)の付近で、幼少期によく祖父母宅に泊まっていたSは当時まだ空き地だった現場一帯で凧揚げをしたり自転車を乗り回して遊んだ記憶があったため一帯に土地勘があった。 現場付近にはさらに新しい高級マンションもあったが、Sはこのマンションで金を得ようと考えた。 Sは16時ごろ、クラウンを運転してマンション付近に赴き 、マンション近くの前にクラウンを駐車した上で付近にあった公衆電話を使用してBの自宅に電話を入れた。 当時、実際には後述のようにBの祖母Cが在宅していたが、電話に誰も出なかったためSは「留守だ」と思い 、クラウンをマンション近くの公園の脇に停車して下車し、Bの自宅マンションに入った。 Sは防犯カメラが設置されていた1階エントランスを避けて外階段を使い2階まで上ったが、2階 - 8階(B一家が在住していた806号室)まではエレベーターを使用した。 そして806号室玄関前に着くと部屋のインターホンを鳴らしたが、この時もインターホンへの応答がなかったため改めて「留守だ」と思い 、806号室の玄関口ドアを「試しに開けてみよう」と考えて ドアノブを回したところ 、ドアは意外にも施錠されていなかった。 ドアが開いたため「誰かがいる」と焦ったSはすぐにその場を離れたが 、エレベーター横の階段に座って20分ほど様子を見ても家人の気配がなかったため、16時30分ごろに玄関口から再びドアを開けて806号室に忍び入った。 当時は「この普通のマンションに現金は200万円も置かれていないだろう」と考えていたため、貴金属類・預金通帳を見つけたら家人に気付かれる前に速やかに逃走するつもりだった。 Sは自分の靴をベランダに隠し 、玄関突き当りにある居間に入って現金・預金通帳・貴金属類などを物色したが、目的とする金目の物はなかなか見つからなかったため、「Cを脅迫して現金などを強奪することに如くはない」と決意し、この時点での犯意を有した。 洋間に踏み込んだSは 就寝中だったCを脚を蹴り上げて起こした。 目を覚ましたCは「見ず知らずの男が目の前にいる」ことに驚いたが 、寝込んでいたところを突然起こされた上、高齢のため抵抗もままならなかった。 SはCに危害を加える気勢を示しながら 預金通帳・現金を出すようすごんだが 、Cは同室出入り口付近にあった棚に置かれた財布から現金8万円を取り出し 、それをSに渡して 毅然とした態度で帰るように諭し 部屋から逃れようとした。 これに対し「バカにされた」と逆上したSはCの後襟首につかみかかってCを引き戻し、再び通帳を出すよう要求して危害を加える気勢を示したが 、Cは頑なに応じなかった。 Sはこの時に緊張して尿意を覚えたため、Cに「通帳を探しておけ」と言い置いた上でトイレに行って用を足したが、トイレから戻ったところ 、Cが隙を見て居間に出て電話の受話器を取り上げ、警察に110番通報しようとしていたため 、とっさにCに体当たりしてCを仰向けに突き倒し、右尺骨および右脛骨を離開骨折させる重傷を負わせた。 SはそのままCに「何をするつもりだったんだ」と問い詰めて 殴り掛かろうとしたが 、Cから顔面に唾を吐きかけられたために激昂し 、Cを頭ごと激しく床に叩きつけたが、CはなおSに抵抗し、爪を立ててひっかいた。 これに逆上したSは殺意を持ってCに馬乗りになり 、近くにあった電気コードを抜き取り 電気コードをCの頸部に一周させて前頸部で交差させた上で、電気コードの両端を両手で持って引っ張ることでCの首を絞めつけた。 SはCの脈拍を調べて死亡を確認すると、Cの遺体の首に巻かれていた電気コードを抜き取った上でCの遺体を引きずって北側洋間に敷かれていた布団に寝かせ、家人が帰宅した際に就寝中だと思わせるように偽装工作した ほか、いったん外に出て付近の自動販売機でタバコ・ジュースを購入し 、約30分後に現場806号室へ戻った。 室内に戻ったSは、家人から金員を強取する目的で帰宅を待ち受けた一方、その間もさらに室内を物色し、Cの遺体を放置していた北側洋間内の出入り口付近にある棚に置かれていたバッグ内にあったCの財布から現金約10万円を強取し、その後も引き続き居間の中で金品を物色していた。 少女Bはこの時、学校帰りに父親Aの会社に寄り、母親Dと買い物をして家路に向かっていた。 被害者Dを殺害 [ ] 19時過ぎごろになって少女B・母親Dが買い物から帰宅したが、当時室内を物色し続けていたSはこの時までに家人の帰宅に備え、予め台所流し台の下から数本の包丁を冷蔵庫の上に移して隠していた。 Sは2人が帰宅すると冷蔵庫の上に隠していた包丁のうちの1本である柳刃包丁1本(刃渡り22. そして、何も気付かずにそのまま居間に向かおうとしたB・D両名を待ち伏せて台所から飛び出し 、2人に退路を断つようにして立ち塞がって包丁を突き付け「静かにしろ。 あまり騒ぐと殺すぞ。 ポケットのものを全部出せ」などと申し向けて脅した。 しかしDは包丁を手にしていたSに対し怯えることもなく、逆にSを「どうしてここにいるの」と厳しく問い詰めてきたため、SはDの「頭の切れそうな態度」に半ば恐れを感じて「騒ぐと殺す」と怒鳴りつけた。 Sは「女とはいえ2人を一度に相手にすることは無理だ。 もし別々の方向に走って逃げられたらどちらか1人は確実に逃げる。 2人が走って逃げ出し大声でも上げられたら終わりだ」と考えたため 、「伏せになれ」と2人を脅して居間の床に並んでうつ伏せにさせた。 その上で、既に殺害した祖母Cについて「睡眠薬で眠っているだけだ」と嘘を述べ 、2人のポケットの中に入っていた所持品をすべて出させた。 包丁で5回刺されたDは致命傷を負って 仰向けに倒れ、激痛・苦痛でうめき声を上げて身をよじって仰向けになったが、脚で床を蹴りながら約1 m ずり動いて床に置いてあったSのジャンパーに近づき、やがて失禁した。 しかしSはDへの救命措置を講じようとせず 、自分が脱ぎ捨てたジャンパーにしがみつく姿を見て「血が付くだろう」と言いつつ 、Dに容赦せずその脇腹を足で蹴ってダウンジャケットから遠ざけた。 そして「(刺されたDを)帰ってくる家人に見られてはまずい」と考えたため 、少女Bに瀕死の母親Dの足を持たせ、絶命寸前のDの体を居間から南側洋間に運び入れ、Bに床に残ったDの大量の血・失禁の跡を拭わせ、自らもそれらを拭き取って証拠隠滅を図った。 被害者Aを殺害 [ ] この時点でBは母親Dを自分の目前で刺され恐怖していたが、後に父親Aも同様に目前で刺され 、そのショック・恐怖で茫然自失状態に陥った。 また(別の部屋で既に殺害されていた)祖母Cについてもその死を知らず 、(寝かしつけられた妹Eも含めて)その身に危害を加えられることを恐れていたため 、妹Eを目の前で刺殺されるまではSに抵抗できない状態だった。 そのため、Bは(Eが保母に連れられ帰宅した際、および父親の会社へ預金通帳を取りに行かされた際に)外部の人間と接触したにも拘らず、助けを求めることができなかった。 SはDを殺害した直後から警察が突入してくる翌朝まで現場室内にBを監禁した。 Dを殺害してから15分後には保育園児の妹Eが保母に連れられて帰宅したが、Bがドアを開けてEを部屋に入れた。 SはBに命じて夕食の準備をさせてB・Eとともに3人で食事を摂り、食後にEを絞殺された祖母Cの部屋に追いやってテレビを観せた。 一方で少女Bから「父親は23時過ぎに帰って来る」と聞かされたために「金品を強取するためにその帰宅を待とう」と決意するとともに「気分転換のためにBを強姦して気を紛らわそう」と考え、21時20分ごろには先ほどDを刺した包丁で少女B を脅して 寝室に連れ込み 、その上でBに対し「服を脱げ」などと迫ったが 、Bは目の前で母親を惨殺されて恐怖に震えていたためにうまく手が動かず 逡巡していた。 しかしSの予想より早く21時40分ごろ(強姦行為の最中)に父親Aが帰宅したため、Sは慌ててBの身体から離れ、服を着てカウンター付き食器棚の上にいったん隠していた柳刃包丁を手に取り、食器棚の陰に隠れた。 男性Aがその状況に気付かず居間に入り、ベッドで横になっている娘Bを見て「寝てたのか」と声を掛けたところ、Sは金品を強奪する意図でAの背後から左肩を包丁で一突きして反抗を抑圧した。 Sは負傷して動けなくなったAに暴力団組員の名刺を突き付けて脅すとともに、組員を装い「お前が取材して書いた記事で(自分の)組が迷惑している」と架空の事実を突きつけて因縁を付け、「通帳でも現金でもなんでもいいから200万円くらい出せ」と脅迫した。 Aはまだ「妻D・母Cが目の前の男に殺された」とは知らず、「家族を守ろう」と必死だったため、Sに母親の通帳のありかを教えてしまい、娘Bに指示して宅内の現金16万円を集めさせた。 なお、現場806号室の真下の部屋に住んでいた住民は捜査本部の聞き込みに対し「同日23時30分ごろに上の部屋で『ドスン』と大きな音がした」と証言している。 Sはこの時点で致命傷を負っていたAから「勤務先の会社に行けば別の預金通帳・印鑑がある」と訊き出したためにそれも強取することを考え 、Bに命じて事務所に電話を掛けさせた。 SはBをして職場に残っていた社員へ「これから通帳を取りに行く」と伝えさせ、日付が変わった1992年3月6日0時30分ごろには居間で動けなくなり横たわっていたAを806号室に残し、Bを連れて同室を出た。 そしてエレベーターでBとともにいったん1階まで下りたが 、「Aをこのまま生かしておけば警察に通報される恐れがある」と考えてAを殺害することを決意し、Bを1階に残して806号室まで引き返した。 1992年3月6日0時30分ごろ 、Sは既に預金通帳などの所在場所を訊き出し、無用の存在となっていた被害者A を「後顧の憂いを断つため、即ちとどめを刺して口封じをする目的」で殺害した。 SはAにとどめを刺した後、反抗を抑圧されたBをクラウンに乗せて道案内させて行徳駅前の事務所に向かった。 会社の金を奪う [ ] 1992年3月6日0時40分ごろ、SはA・D夫妻の経営していた会社の事務所があった千葉県市川市行徳駅前所在のビル前に赴き、Bに「人がいるとヤバい。 俺はここで待っているから、お前が行って来い」と命じて事務所に向かわせた。 Bはビル204号室 にあった事務所に向かい、事務所内で寝泊まりしていた同社従業員の男性に「ヤクザが来ていて『お父さんの記事が悪い』とお金を取りに来ている」と告げ、事務所内から会社名義及びA・D夫妻名義になっていた預金通帳計7冊(額面合計63万5,620円)・印鑑計7個を持ってSが待っていた自動車内まで戻った。 Sはその後、それら通帳・印鑑をBから受け取ることで強取したが 、Bが事務所に行っていた間に空腹を覚えたため 、近くのコンビニエンスストアで菓子パンを買って食べていた。 SはBが事務所に現れてから約20分後に事務所へ現れたが 、その際にBに「おい、行くぞ」と声を掛け 、2人で印鑑・通帳を持って行った。 Sがビル1階にいた一方、Bは20分間にわたりビル2階の事務所にいたが、前述のように祖母C・妹Eに危害を加えられることを恐れていたため 、この時は特に従業員に助けを求めることはなかった。 一方でBの行動を不審に思った従業員は派出所に連絡し、1時30分ごろに葛南警察署員 とともに806号室に出向いた上で 部屋のドアを叩いたり室内に電話をかけたりしたが 、この時は部屋の照明が消えており応答もなかったため、署員は「不在だ」と思い引き揚げた。 なおこの時点ではいずれも前述したようにBの両親(A・D夫妻)および祖母Cの3人は既に殺害されていたが、寝かしつけられていた妹Eはまだ生存していた。 通帳・印鑑7組を奪ったSはそのままBをクラウンに乗車させて市川市塩浜三丁目にあったラブホテルにBを連れ込み、このホテルの5階501号室で一夜を過ごした。 Sはこの間、ラブホテル室内で30分ほどかけて通帳の額面を調べたり、印鑑・通帳の印影を確認したりしていた上、ここでもBを強姦した(4度目)。 そして4時間近く熟睡し、目覚めてからBに5度目の強姦を行った。 被害者Eを殺害 [ ] 3月6日6時30分ごろ、SはBとともにマンション806号室へ戻り 、既に一家3人が死亡していた部屋でしばらく時を過ごしていたが 、寝室で寝かせていたBの妹Eが目を覚まして 泣き始めていた。 Sは「Eが両親・祖母の死を知って泣き叫べば、近隣住民にその声が聞こえて犯行が発覚する」と恐れたため、その発覚を免れる目的でEを殺害することを決意し、6時45分ごろになって食器棚のカウンター上においてあった前述の柳刃包丁(A・D夫妻を殺害した際の凶器)を右手に持って寝室に入ると、自分に背を向けて布団の上に上半身を起こして座っていたEに近づき、その背後から左手でEの顎のあたりを押さえつけながら、殺意を持ってその背部を包丁で1回突き刺した。 この刺突行為は包丁がEの幼い体を貫通し、刃先が胸まで突き抜けるほどのもので 、Eは「痛い、痛い」と弱々しく声を出してもがき苦しんだ。 SはBに対し「妹を楽にさせてやれよ。 Bはこの時までに目の前で家族を皆殺しにされ、自らも複数回陵辱されたことで心身ともに打ちのめされていたが 、目の前でEが殺害された直後(6時50分ごろ)に「どうして妹まで刺したの!」とSに食って掛かった。 しかしSは「突然のBの反抗」に逆上して包丁を振りかざし、Bの左上腕・背中を切り付け全治2週間の怪我(左上腕切創、背部切創)を負わせた( 罪状その14・傷害罪)。 結果的に室内でのSの犯行は5日16時30分ごろ(侵入・Cを絞殺) - 6日6時50分ごろ(Bへの傷害)と約14時間に及び、一晩で家族4人を失った被害者Bは帰宅(19時過ぎ) - 警察出動(6日9時ごろ) まで監禁され続けた。 一家4人の人命が奪われたこの事件でSに強奪された被害総額は現金合計約34万円・預金通帳計9冊(額面合計424万円余り)に上り 、後に被告人Sと文通した『』()社会部記者・瀬口晴義は「検察官による冒頭陳述書を読んで『凶悪・凄惨という形容詞が陳腐に思えるほど残酷な場面』の連続で吐き気を催したほどだ」と述べた。 捜査 [ ] 一方でA・D夫妻の会社事務所に勤めていた男性社員は深夜にBが訪問してきたことを不審に思っていたが 、3月6日早朝に自宅の電話に再びBから「金の工面を求める電話」を受けたため 「社長宅の様子がおかしい」と不審に思い、同日8時過ぎになって マンションに電話を入れた。 社員からの電話に出たBは「おはよう」と言ったきりそのまま電話口で押し黙ってしまったが 、従業員が「脅している奴が部屋にいるのか」と尋ねるとうなずいた。 従業員はBの対応が不自然だったことに加え 、部屋を訪ねてもドアの鍵がかかっており呼んでも返事がなかったことを不審に思い 、9時ごろになって近隣の葛南警察署 行徳駅前交番に「知り合いの社長の娘から不自然な電話があった。 家族が刺されたらしい」と110番通報(Sが事務所に来た直後以来2度目)した。 その後、従業員が派出所の警察官とともに部屋の玄関前へ駆け付けたが、玄関は施錠され呼んでも返事がなかった。 そのため署員が隣の部屋からベランダを伝って窓から806号室に踏み込んだところ 、室内の壁などに血が飛び散り 、一家4人がそれぞれ別々の部屋で死亡していた。 また、室内では警察官が現場に駆けつけるまで十数時間にわたってBを監禁していたSがBとともに呆然と立ち尽くしていた。 Sは警察官が現場に踏み込んできたころ、冷蔵庫の上に置いてあった文化包丁を取ってBに持たせ 、Bが犯人であるかのように仮装して逃亡を企て「俺は逃げるから、俺を脅しているように(包丁を)持て」などと言っていたが 、9時30分ごろになって通報を受けて駆け付けた警察官たちが現場から逃走しようとしたSを取り押さえて現場へ連れ戻し 、Sがナイフを所持していたことから違反容疑で現行犯した。 一方、Bは警察によって保護された。 千葉県警捜査一課・葛南署は 殺人事件として本事件の捜査を開始し 、1992年3月6日夕方に捜査本部を設置した。 その上で捜査本部は長女Bと少年Sを それぞれ参考人として任意同行し、2人から前夜からの行動などについて 詳しく事情を聴取した。 警察が(結果的には被害者と判明した)Bに対しても嫌疑を向け、重要参考人として取り調べた理由は「事件当時、Bは少なくとも2度(妹Eの帰宅時・両親の部下の下へ預金通帳を取りに来た際)に外部へ助けを求める機会があったにも拘わらず助けを求めなかった点」に関する理由が判明せず、その点を疑問視していたためだった。 この時点で既に銃刀法違反容疑で現行犯逮捕されていたSは 取り調べに対し当初、事件への関与を否定して「先月にBと知り合い、A宅の住所と電話番号を聞き出した」「Bとは一緒にコンサートに行った」などと虚偽の供述をした一方で、被害者のBはショックのためか取り調べに対しても何も話すことができなかった。 千葉県警捜査本部は当初、Sの虚偽の供述を真に受けて「S・B両名を殺人容疑で取り調べている」と発表したが 、その後も丹念に真偽を調べた末にそれらを「Sの虚言」と突き止めた。 同日深夜、Sは一転して犯行を認め 、具体的な動機に関して「交際していた女性のことで暴力団組員から脅されており、200万円ぐらいの金が欲しくてやった。 806号室に盗みに入ったところCに見つかったので絞殺し、帰宅した家人を次々と刺殺してBを監禁していた」と供述した。 そのため、捜査本部は銃刀法違反容疑(前述の現行犯逮捕容疑)についていったん釈放の手続きを取った上で 、強盗殺人容疑で被疑者Sを逮捕した。 その後、Sは現場マンションで犯行を決行した理由に関して「マンションの近くまで行ったことがあり『この家ならやりやすい』と思った」と供述したため、捜査本部は本事件を「Sが金に困った挙句、標的を絞り下見をした上で実行した計画的な犯行」と推測してSを追及した。 1992年3月7日9時30分ごろから現場検証が行われた結果、現場から血液の付着した凶器の包丁が発見され、捜査本部は包丁の柄などから採取した指紋を鑑定するなど裏付け捜査を行った ほか、事件当時Sが住んでいたマンションを家宅捜索して書類など数点を押収した。 捜査本部は1992年3月8日に被疑者Sをへし 、1992年3月9日・10日両日にで殺害された被害者4人の遺体をした。 その結果、絞殺された祖母Cを除く被害者3人(刺殺されたA・D・E)の死因は「胸を刺されたことによる失血死」 、Cの死因は「首を絞められたことによる窒息死」と確認された。 1992年3月12日、(市川市)で殺害された被害者4人の葬儀が営まれ、被害者Bが喪主を務めた。 葬儀の最後に喪主のBに代わって親類代表としてAのいとこが 本事件に関して「平和な家庭を一夜にして奈落の底に突き落とした信じがたい出来事。 悪魔の所業だ。 このような犯罪が二度と起こらないよう、犯罪防止に努めてほしい」 「学識者・マスコミが中心になってこんな惨劇が二度と起こらないように努めてほしい」と挨拶した。 『中日新聞』1992年3月15日朝刊は後述の問題に言及して「その言葉は千葉県警・マスコミに厳しい課題を課した」と報道した。 千葉県警の発表・報道 [ ] 千葉県警は前述のように事件当初は加害者Sのみならず、結果的に被害者と判明した少女Bに関しても嫌疑を向け 、S・Bの両者を 重要参考人として取り調べていた。 また県警はマスメディアに対し、事件判明直後(1992年3月6日)の発表の際には少年Sが銃刀法違反容疑で現行犯逮捕されていた事実を発表しなかった一方 、「室内には長女Bのほか、自称19歳の『Bの男友達』がいた。 2人から参考人として事情聴取している」と発表した。 結果的に3月6日付新聞夕刊の一部・テレビニュースでは「長女・男友達から事情聴取」という報道が流れ、最終的には被害者と判明したBについて「『犯行に関与しているかもしれない』という警察・記者側の予断に基づいた、読者に誤解を与えかねない記事」による報道がなされ 、事件解決後に新聞各紙・関係者から問題提起がなされた。 新聞各紙夕刊の見出しは以下表の通りで、記事内容の概要はいずれも「市川市内のマンションで家族4人が血まみれの状態で倒れて死亡していた。 県警葛南署は4人の遺体に刺し傷があったために殺人事件として捜査を開始した上で、現場にいた高校1年生の長女(B)と『長女の友人の若い男性』(=加害者少年S)の2人から事情聴取している」というものだった。 1992年3月6日・7日付新聞各紙朝刊における被害者一家5人の実名報道状況 新聞名 3月6日夕刊見出し 死亡被害者4人 被害者B 備考 『』 「一家4人殺される 市川のマンション 部屋に高一の養女 男友達も、事情聴く」(東京夕刊) 実名 匿名 『』 「一家4人刺殺される 長女・友人から聴取」(東京都内版) 「一家4人殺される 市川」(千葉県内版) 全国版の社会面では県警から発表された事実が反映され「19歳の少年逮捕へ」という見出しに修正されたほか、千葉市以西に配達された朝刊でも朝刊段階で「事件はSの単独犯」という内容に修正された。 一方で県南部・北東部向けの朝刊早版では修正が追い付かず、3月7日付朝刊地方面では「数カ月間深夜に物音」「詳しい事情聴取 長女と男友達から」という見出しになっていた。 『』 「マンションで5人家族の一家4人、刺殺される--千葉・市川市」(東京夕刊) 「一家4人、刺殺される 高1長女無事、男友達も--千葉・市川」(大阪夕刊) 『』 『』 「家族4人殺される 千葉のマンション 長女と男性から事情聴く」 5人全員匿名 社会部長・稲田幸男は「両親の名前を書けば生き残った長女Bが特定されてしまう虞があったため家族全員を匿名とした。 社内では『実名報道の大原則に反する』と反対意見も出たが、今回の判断はそれを侵すものではないと考えている」と説明した。 『』 (発行せず) Sが強盗殺人容疑で逮捕された後の3月7日朝刊が第一報。 『』 「一家4人殺される? 千葉・市川のマンション」 5人全員実名 編集局次長・橋本直はBの実名報道に関して「第一報の段階ではBも千葉県警から嫌疑を掛けられていた状況だったため匿名にしたが、7日の朝刊作成段階で『Bは完全な被害者』と判明したため、それを明確に示すためには実名報道の方が適切と判断した。 しかし被害者にとっては陰惨で気の毒な事件であり一刻も忘れたいことだろう。 今後の報道の方法は考えたい」と説明した。 『』 「一家4人刺殺される 長女と男友達から聴取 千葉のマンション」 同日17時には千葉県警が2回目の記者会見を行ったが、県警はこの時にも同様に「B・Sの2人から事情聴取している」と発表したほか、「警官が現場に駆けつけた時、SとBは室内で呆然と立っていた」と説明し、これも現場の記者たちの予断に追い打ちをかけた。 夕刊発行後の21時30分になって 同日3回目となる記者会見が開かれ 、千葉県警は報道陣に「本事件はSの単独犯行であり、Bは全くの被害者である」という事実を発表したが 、『朝日新聞』では地域版によって修正作業が追い付かず、上の表で示したように全国社会面と千葉県版地域面で整合性を欠く記事が掲載された。 このほか『朝日新聞』の報道検証記事では「一部スポーツ新聞がBが養女である点(事件の主旨とは特に関係ない)に注目したり、裏付けを取らないまま被害者一家の生活ぶりを報道したほか、事件3日後(1992年3月9日)の朝にで放送されたワイドショー番組『』ではBの同級生へのインタビューの際にリポーターとその質問に答える同級生がBの実名を口にし、その問答がそのまま放送された」ことも指摘された。 事件解決後、千葉県警刑事部長は3月6日夜に「Bが最大の被害者だった」とコメントしたほか、Bが当時通っていた県立高校の担任教諭は事件後に「昼間に千葉県警が『長女B・少年Sの両者から事情聴取している』という発表があったにせよ、マスコミの取材はBを犯人扱いしていた」と批判した。 差別を受けやすい養子・養女には配慮が必要だと思う。 マスメディアには『』がないよう最大限の配慮をしてほしい」という読者からの発言が掲載された。 精神鑑定・起訴 [ ] 被疑者Sは逮捕直後、「ならどんな犯罪でもにより処罰は軽くなる」と考えていたため、自分が死刑になる可能性は考えておらず「これでも俺も行きか」程度にしか考えていなかった。 その考えの背景には当時、S自身が少年犯罪への刑罰ついてあまり知識を有していなかったことに加え 、「死刑になる者は過去に殺人を犯しておきながら、刑期を終えてからか無期懲役の仮釈放中に再犯するような者ぐらいだ。 同事件の加害者少年たちと自身の犯行を比較して「自分の犯行はコンクリート事件ほど長期間ではなく、(事件前に)凶器を準備していない」とも考え 、逮捕後には自身の出所後の生活設計のため、面会に訪れた母親Yに頼んで高校時代に使っていた教科書・参考書・辞書類を差し入れさせていた。 千葉地検は送検後の1992年3月25日、勾留期限満期(1992年3月27日)を前にのため被疑者Sを1992年3月26日から鑑定留置することをに申請した。 この間に教授(当時)・が半年間にわたり精神鑑定を行い 、千葉地検は鑑定結果を踏まえて「Sはカッとなると歯止めが効かなくなるが、完全ながあった」 と結論を出し 、1992年10月1日に強盗殺人・傷害など5つの容疑で被疑者Sを「刑事処分相当」の意見書付きでに送致した。 その後、千葉家裁(裁判官)は4回にわたるを経て1992年10月27日に被疑者Sを千葉地検にした。 千葉地検は1992年11月5日にSを強盗殺人・傷害など5つの各罪状で千葉地裁へした。 また、1991年10月19日に東京都内で起こした別の傷害事件(前述)に関しても同日付で被疑者Sを起訴したほか 、公判開始後の翌(平成5年)2月17日までに「一家殺害事件前の余罪3件(いずれも前述)」に関して傷害・恐喝・窃盗・強姦致傷の計4つの罪状でSを千葉地裁へ追起訴した。 起訴内容は以下の通り。 1992年2月11日4時30分ごろ、被告人Sが東京都内の路上での女性に折り畳みナイフを突き付け、殴るなどの暴行を加えた上、手を切り付けて脅迫し、自宅に連れ込み強姦した容疑(強姦致傷罪)。 1992年2月25日、被告人Sが市川市内で通りすがりの会社員男性に因縁をつけて鉄の棒で頭を殴り、自動車運転免許証を奪い金を要求した容疑(恐喝罪)。 1992年2月27日、被告人Sが埼玉県岩槻市(現:さいたま市岩槻区)内で通りすがりの大学生の顔を殴り、ナイフで全身数十箇所を刺すなどして全治6週間の怪我を負わせ、運転免許証や車検証などを奪った容疑(傷害・窃盗罪)。 刑事裁判 [ ] で被告人Sは強盗殺人・強盗強姦・恐喝・窃盗・傷害・強姦・強姦致傷と7つの罪に問われ「1991年10月から一家殺害事件直後に逮捕されるまでの約5か月間に計14の犯罪を繰り返した」と認定された。 第一審・千葉地裁 [ ] に関しては主に被害者への殺意の有無・程度や強盗の犯意が争点となり、検察官側は「被害者4人全員に確定的殺意があり、全員に対し強盗殺人罪が成立する」と主張した一方、被告人Sは被害者4人のうち女性C(被害者少女Bの祖母)以外の3人については強盗殺人罪の成立を否認した。 各被害者に対する殺意・罪状の認定 被害者 の選択 適用罪状 殺意の事実認定 検察官の主張 被告人Sの罪状主張 被告人Sの殺意主張 祖母C 無期懲役 強盗殺人罪 確定的 強盗殺人罪 殺意は確定的 強盗殺人罪 殺意は未必的 母親D 死刑(実際に適用) 未必的 傷害致死罪 もしくは 強盗致死罪 殺意なし 父親A 確定的 強盗致死罪 妹E 殺人罪 殺人罪 殺意は未必的• 被害者Bへの強姦致傷罪・強姦罪 - いずれも有期懲役刑を選択• その他各種余罪 - いずれも懲役刑を選択 各罪状における量刑選択の内訳は以上の通りであったが、刑法第51条()の「死刑を執行すべきときは没収を除き他の刑を執行しない」という規定により、実際に適用された刑は「犯情の最も重い妹Eに対する殺人罪への死刑」と「押収された折り畳みナイフ1丁(平成5年押収第52号の2)の」のみで、それ以外の刑は科されなかった。 また犯行当時の被告人Sのについても争点となり、検察官は(起訴前)・(公判中) による2度の精神鑑定結果を踏まえ「2度の鑑定でも精神病の兆候は認められず、自己の行為の是非・善悪を弁別する能力に障害はなかった。 被告人Sには完全な責任能力がある」と主張した一方、弁護人は福島による精神鑑定の結果に基づき「被告人Sは爆発型精神病質・類転換病質で、犯行当時は心神耗弱状態だった」と主張した。 しかし千葉地裁は「2度の精神鑑定から『心神耗弱だった』と断言することは困難。 『爆発的精神病質者』との鑑定があるが、責任能力に支障をきたすほどではなかった」として「責任能力は問題なくあった」と結論付けた。 千葉地裁は事実認定に関しても被害者Eに対する罪状(強盗殺人罪ではなく殺人罪を適用)および被害者Dに対する殺意の程度(未必的殺意)を除き、大筋で検察官の主張を採用し 、死刑を適用した。 初公判 [ ] 1992年12月25日に千葉地裁刑事第1部(裁判長)で一連の事件の初公判が開かれた。 前述のようにこの時点では余罪の追起訴が未完了だったため、検察側はこの日の冒頭陳述は見送り、次回公判(1993年3月3日)までに追起訴した上で改めて冒頭陳述・追起訴状の罪状認否を行うことになった。 罪状認否でSは 、被害者B宅を知るきっかけとなった強姦事件などについて全面的に起訴事実を認めた一方で 、殺意などに関しては上記表のように争った。 弁護人も被告人Sと同様に「外形的な事実関係」は認めたが、犯意・目的などの点に関する起訴事実を一部否認し 、公判後の記者会見では「被告人Sが千葉地検に逆送致される際、千葉家裁は我々の主張にほぼ沿う判断をした。 検察側が殺意を確定的と主張すれば全面的に争う」と話した上で、被告人Sについては「『被害者に何とかお詫びをしたい』といつも言っている」と話した。 第2・3回公判 [ ] 事件から1年を前にした1993年3月3日に千葉地裁刑事第1部(神作良二裁判長)で第2回公判が開かれ 、被告人Sは同年1月に追起訴された計4つの余罪(傷害・恐喝・窃盗・強姦致傷など)に関する罪状認否でそれらの起訴事実をほぼ認めた。 その後行われた冒頭陳述で検察側は「被告人Sは暴力団員から要求されていた金以外にも遊興費など欲しさから一家4人を次々に殺害して現金約34万円・残高約420万円の預金通帳を奪った」などと主張し 、事件の引き金となった暴力団員とのトラブルなど様々な新事実を明らかにした。 この時点では弁護人側は「検察側による精神鑑定の結果には疑問があるが、被告人Sの責任能力は争わず、再度の精神鑑定は求めない」という考えを示した上で 「今後は被害者に対する反省の態度など『情状面での立証』に全力を挙げたい」と表明していた。 そのため千葉地裁は当初、次回公判(第3回公判・1993年5月19日)で・被告人質問を、第4回公判(1993年5月26日)で弁護人側の情状立証公判を行い、進めた上で1993年6月中に結審 することを予定していた。 しかし、次回公判までにそれまでと方針を一転させ、「1993年2月に追起訴された傷害・恐喝など別事件に関してはいずれも常人の理解を超えている」と主張し 、千葉地検が起訴前に小田へ依頼して半年間実施した精神鑑定の結果に対し「精神的な面が主な観点であり、犯罪心理面からの鑑定が必要である」と異議を唱えた。 第3回公判で弁護人がその方針を改めて表明したのに対し、千葉地検は「起訴前に半年間にわたって詳細な精神鑑定を実施しており再鑑定の必要性はない」と反対意見を述べたが、弁護人側の請求を受けた千葉地裁はいったん休廷して3人の裁判官による合議を行った。 その結果、神作裁判長は弁護人からの請求を認めて心理学教授(当時)・に委嘱し、約半年間にわたり再度の精神鑑定を実施することを決めた。 そのため、結審間近の公判中に別の角度から再度の精神鑑定が行われる異例の展開となったほか 、1993年6月21日に予定されていた論告求刑公判期日も取り消されたため、公判の長期化は必至となった。 第3回公判では被告人質問も行われ 、被告人SはC・E両被害者に対する殺意をそれぞれ認める供述をした一方 、A・D両被害者への殺意に関しては「その時は殺すつもりはなかった。 背中を刺して死ぬとは思わなかった」と否認したが、「なぜこんな事件を起こしたのか」という質問に対し「短絡的でした」と反省の言葉も述べた。 弁護人は同日に情状証拠として「被告人Sが被害者遺族の関係者宛てに書いた謝罪の手紙」「A一家とは別の事件被害者に対して支払った50万円近い被害弁償を証明する領収書」などを証拠申請した。 2度目の精神鑑定とその後の公判 [ ] 弁護人側の申請を受けて1993年5月 - 11月まで約半年間にわたり、福島による2度目の精神鑑定が行われ 、1993年11月20日までに福島は「被告人Sの母親Yが妊娠中に流産予防のため黄体ホルモンを約2か月間服用したが、出生したSはその『胎児に対する男性化作用』により攻撃的な性格になり、突然感情を爆発させる『間欠性爆発性精神病質』で『周期性気分変調』と診断される。 軽度の脳器質障害も見られ『興奮状態になる精神的な不安定さ』を有しているが、こうした心理・精神状態は中高年(30歳代)で矯正可能である」とする新たな鑑定結果を千葉地裁に提出した。 福島も小田鑑定と同様に「被告人Sは精神疾患ではなく刑事責任は問える」と評価したが、一方で「被告人Sは心身成熟過程にあり精神的に不安定な性格異常である。 しかし19歳は心身の成熟過程にあり、今後人格の改善の可能性がある」という見解を示した。 一方で千葉地検は精神鑑定中の1993年8月(事件から1年5か月)に「被害者Bに対する期日外尋問」を行ったが、Bは尋問に対し「他の人が手に包丁を持ったまま振り向いたりすると『刺されるんじゃないか』と思って恐怖を感じる。 夜はほとんど1人では出掛けなくなった」と供述し 、量刑などに関しても被告人Sに対し極めて厳しい意見を述べた。 1993年11月22日に第4回公判が開かれ 、福島による再度の精神鑑定結果に加え、検察官が提出した被害者遺族の尋問調書などが証拠として取り調べられた。 同公判後、弁護人は記者会見で「被告人Sは通常時・犯行当時ともに精神的には正常であり性格に偏りがあるにすぎないが、値が高いという体質的要素から『自分の感情をコントロールする能力』・『刺激に寄って我を忘れやすくなる性格』が結びついている。 これまでの司法判断で言えば刑事責任能力は取れるが、今回は体質的な要素や、その要素は年齢を重ねるにつれて改善されるものであることを考慮して被告人Sのをすべきである」と述べた。 また同日には次回第5回(1994年1月31日)以降の公判予定も改めて指定され、千葉地裁は第6回公判(1994年2月23日)で論告求刑・1994年3月に最終弁論を行って結審し、1994年4月に判決公判を開くことを決めた。 (平成6年)1月31日に開かれた第5回公判で証人尋問が行われ、弁護人側の情状証人として出廷した被告人Sの母親Yは前回公判で弁護人側が提出した精神鑑定の結果に関して「『妊娠中に常用していた黄体ホルモンの影響で息子Sの性格が攻撃的なものになった』と聞いて驚いた。 家庭の事情による度重なる転校で学校でのいじめもあったようだ」と証言した。 同日、被告人Sは被告人質問で「犯行当時は自分の行動が理解できなかった。 今は(当時の収監先)内で聖書を読むなどして心を落ち着かせている」と述べた。 一方で次回公判(1994年2月23日・第6回公判)では当初予定していた論告求刑ではなくそれぞれ最後の被告人質問・証拠調べを行った上で、1994年3月14日に改めて検察側の論告求刑を行うこととなった。 1994年3月14日に第7回公判が開かれ、千葉地裁は論告求刑公判の予定を再び変更して被告人質問を行ったが、被告人Sは「犯行に至った経緯・心境」「取り調べ状況」などについて質問を受けて「事件当初は空き巣目的で計画的な強盗ではなかった」などと強調した。 同日をもって証拠調べは終了し、次回公判(第8回公判・1994年4月4日)で検察側の論告求刑を行うこととなった。 死刑求刑 [ ] 千葉地検は論告求刑を前に上級庁であると慎重に協議を行い 、1994年4月4日に千葉地裁(神作良二裁判長)で開かれた論告求刑公判(第8回公判)で 被告人Sに死刑を求刑した。 少年犯罪に対する死刑求刑は異例で 、当時は1989年1月・の第一審()以来だった。 同日の論告で検察官は殺害された被害者4人全員への確定的な殺意・強盗殺人罪の成立を主張した上で完全責任能力があることを主張し 、尋問調書でBが述べた被告人Sへの極刑適用を望む言葉も読み上げた。 「今でも両親らとの楽しかった思い出を夢に見る。 私から大切なものをすべて奪ったSが憎くてたまらない。 Sをこの手で殺してやりたいし、Sはこの世に生きていてほしくない。 Sは許されていいはずがない。 優しかった父母や祖母、自分に『お姉ちゃん』と甘えてかわいかったEをなぜ殺した。 家族を返せ」 — 被害者少女B、永瀬 2004 p. 93 そして、量刑理由については「一連の犯行は全て被告人Sの単独犯行で、少年犯罪にありがちな『』とは事情が異なる」 「で示された死刑適用基準をすべて満たしていることから明らかなように被告人Sの刑事責任は誠に重大で、情状酌量の余地はない。 罪刑均衡・犯罪予防の見地から命をもって罪を償わせ、今後このような凶悪犯罪が起きないようにすることが司法に課せられた責務だ」と主張した。 公判後に記者会見した被告人Sの主任弁護人・弁護士は「生育環境など同情すべき事情や矯正可能性を評価しておらず、最近の死刑廃止の動きに逆行する求刑だ。 被害者や遺族には申し訳ないと思うが、当時少年のSには矯正の可能性があり、死刑は少年法の精神からして厳しすぎる」と述べた。 前述のように逮捕直後「少年犯罪なら死刑にはならない」と考えていた被告人Sはこの論告求刑公判で死刑を求刑されたことで「後の死刑判決宣告以上に」大きな衝撃を受けた一方、検察官に対しては嘲笑・に近い感情も抱いていた。 結審 [ ] 1994年4月27日の第9回公判では当初弁護人の最終弁論が行われる予定だったが、弁護人側は同年4月15日までに「事件当時少年の被告人に対して行われた死刑求刑に対し『死刑制度の是非』という大局的な見地で判断を仰ぎたい」との考えから、同公判で死刑制度の是非そのものについて問いかける内容の弁護人側立証を行うことを決めた。 千葉地裁もその方針を認めたため、予定されていた最終弁論は延期され 、追加の被告人質問・証拠調べが行われた。 弁護人は起訴前に精神鑑定を行った小田が鑑定前に事件について言及した週刊誌記事 や被告人Sの母親Yから提出された情状酌量を求める上申書2通などに加え、超党派国会議員による『』の発足を報じる新聞記事 などを証拠として提出したほか 、被告人Sは被告人質問で死刑求刑に関して「自分の犯してしまった罪の重さを痛切に感じている」と述べた。 1994年6月1日に開かれた第10回公判で改めて弁護人の最終弁論が行われ、同公判をもって第一審公判が結審した。 弁護人は検察官の「被害者4人への確定的殺意・C以外3人への強盗殺人罪の成立」をいずれも否認し、「犯行当時、被告人Sは心神耗弱状態だった」と主張して死刑回避・無期懲役刑の適用を求めた。 情状面に関して以下のように主張した。 被告人Sの母親Yは各余罪の被害者に対しいずれも誠意ある謝罪をした上で、所有するマンションを売却するなど可能な限りの方法で資金を作り以下のように示談をした。 1991年10月19日の江戸川区内における傷害事件の被害者男性に対し、示談金45万円を支払って示談が成立した。 1992年2月11日未明の中野区内における傷害・強姦事件の被害者女性に対し、示談金155万8,475円を支払い示談を成立させた。 1992年2月25日未明の市川市内における傷害・恐喝事件の被害者男性に対しては示談成立に至らなかったが、治療費・休業損・慰謝料の内金として50万円を現金書留郵便で送付した。 2月27日未明の埼玉県岩槻市内における傷害・窃盗事件の被害者男性に対しても同様に合計50万円を送付するなどして被害弁償に努めた。 被害者Bとの接触は拒否されたが、A一家の菩提寺へ被害者の墓参りに訪れたほか、供養のための喜捨をするなどして被害者の冥福を祈った。 死刑廃止は先進国際社会の常識で、死刑制度がある先進国は日本以外ではの一部州のみである。 少年法で18歳未満の少年への死刑適用は禁じられているが、被告人Sは犯行当時19歳で18歳とわずか1年1か月しか違わない。 事件は計画的ではなく、被告人Sは不幸な生育環境にあり当時精神未発達の少年だったが深く反省しており、矯正する可能性が高い。 被害者はSの犯行の合間に警察に通報する機会があった。 最後に被告人Sは、神作裁判長から「何か言いたいことはあるか」と問われて「大変な事件を起こして申し訳ない。 これから生きていく中で少しでも償うように過ごしていきたい」と述べた。 しかし『千葉日報』は公判中の被告人Sの態度に関して「心情を吐露することなく、被告人質問における供述も相手任せだったり、自分の言葉で深い心情を語らなかったりと、自らの生死を決する裁判の進行もまるで他人事と受け止めているかのような姿勢に終始していた」と述べている。 死刑判決 [ ] 1994年8月8日に判決公判が開かれ 、千葉地裁刑事第1部(神作良二裁判長)は検察側の求刑通り 被告人Sに死刑判決を言い渡した。 犯行当時少年への死刑判決は(108号事件)における1990年の第三・第二次上告審判決(差し戻し控訴審の死刑判決を支持して被告人・の上告を棄却)以来であり、第一審では1989年の・判決(控訴審で破棄・無期懲役が確定)以来であった。 理由で千葉地裁は「国際的にみるとそれぞれの国の歴史的・政治的・文化的その他の事情から、現在は死刑制度を採用していない国が多く、我が国においても一部に根強い死刑反対論がある」と述べたが 、永山事件における1983年の「」を引用した上で 、以下のような理由から「深く反省していることや、事件当時精神的に未熟な少年だったこと、不遇な家庭環境など被告人Sに有利な情状を考慮しても罪刑均衡・一般予防の見地から極刑をもって臨まざるを得ない」と結論付けた。 「各種の結果などが示している通り『いくら人を殺しても加害者本人の命は保証される結果になる』死刑廃止には多くの国民が疑問を抱いている。 死刑制度が存置している現法制下で死刑は極めて抑制的に適用されており、生命は尊いものであるからこそ犯した罪を自己の命で償わなければならないケースもある。 これは少年犯罪についても異なることではない。 何の落ち度もない被害者一家4人の命を奪った犯行は『意に沿わないものは人の命でも奪う』という自己中心的・反社会的なもので、残虐・冷酷で身勝手だ。 殺害ぶりも終始冷静・冷酷非道で社会に与えた衝撃は計り知れない」• 「犯行当時少年とはいえ、被告人Sは犯行当時は上成年とみなされる19歳の年長少年で、肉体的にも十分成熟して社会経験も積んでおり、知能も中位で酒やたばこを常用するなど、生活習慣も成年と変わらない。 被告人Sは深く反省して被害者の冥福を祈るなどしており、更生の余地がないとは言えないが、目の前で家族を次々に殺され一人遺された被害者Bの被害感情は峻烈で、被害者一家に対する被害は回復不可能だ」 判決への反応・控訴 [ ] 本判決に関して犯罪事件研究倶楽部 2011 は「死刑廃止を求める議論が活発になっていた当時、世論の注目の中で犯行当時少年の被告人に死刑判決が言い渡された本事件判決はその後の刑事裁判にも影響を与えるものだった」と 、永瀬 2004 は「被告人Sは死刑判決を受けたことで初めて一家4人殺害の罪の重さを受け止め『犠牲者の苦痛と身も凍る恐怖』を知ることとなった」と述べている。 また(当時)・は被害者の立場から本判決を「自己目的の完遂に他人の犠牲をいとわぬ犯行で19歳への死刑適用は合法であり当然だ。 家族すべてを失いただ一人生き残った長女Bが『あんな男は生きていてほしくない』と語ったように、被告人Sを死刑にしなければ被害者遺族はさらに苦しむことになる」と評価した一方、日本支部・は「死刑廃止論が高まっている現状においてあえて少年に死刑を科するならば裁判所はその理由を積極的に示すべきだ」と述べ、死刑判決に否定的な見解を示したほか、弁護士・ も「被害者感情から死刑判決を出すことは簡単だが、そこから社会が学ぶものは何もない。 10回の公判で大人社会が少年を絞首刑にする結果となったが、法廷で少年が心を開いたとは思えない。 犯行へ至る心のひだを解明すべきだ」と指摘した。 千葉地検次席検事・三谷紘は「一部の点(次女Eに対する単純殺人罪認定など)で主張と異なる事実認定がされたが、こちら側の主張をほぼ認めた判決であり、量刑も求刑通りで妥当だ」と述べた一方 、被告人Sの弁護団(主任弁護人・奥田保)は閉廷後の記者会見にて「犯行時に被告人Sが未成熟だったことなどを否定し、世界的な死刑廃止の潮流に逆行して被害の重大性のみに目を奪われた量刑であり極めて遺憾だ」と本判決を批判した。 その上で被告人S・弁護人は判決を不服として、閉廷後の同日午後にへした。 控訴審・東京高裁 [ ] にて開かれた控訴審で弁護人側は以下のように「被告人Sの殺意は『未必の故意』もしくは存在しなかったにも拘らず、原判決は『確定的な故意がある』と事実誤認をしている」と主張した。 祖母C(確定的殺意・強盗殺人罪)および妹E(確定的殺意・殺人罪) - 殺意は未必である。 母親D(未必の殺意・強盗殺人罪)および父親A(確定的殺意・強盗殺人罪) - 殺意はなく強盗致死罪が成立するに過ぎない。 また第一審における「爆発的精神病質者」という主張に関してはアメリカ合衆国の心理学者 ・ライニッシュの論文を添えて補強した上で 改めて完全責任能力を否定する主張を展開したほか 、「世界的な死刑廃止運動」「18歳未満への死刑適用を禁じた少年法の趣旨」 を強調した上で「死刑判決を破棄して無期懲役刑を適用するのが相当である」とする旨を主張した。 しかし(平成8年)に開かれた控訴審判決公判で東京高裁刑事第2部(裁判長) は第一審・死刑判決を支持して被告人S・弁護人の控訴をする判決を言い渡した。 東京高裁は「犯行当時少年で、年齢を重ねれば教育によって改善の可能性はある」と被告人Sに対して有利な情状も認定したが 、以下のような様々な情状の認定により死刑を回避するには至らず「犯した罪の重大性を見ると犯行は卑劣・残虐であり生命に対する畏敬の念を見い出せない。 その罪の重大性から死刑に処すのはやむを得ない」と結論づけた。 被害者の傷の深さ・犯行後に救命措置を考えていないことなどから原審の殺意認定は正当である。 弁護人側の主張する『黄体ホルモンの影響による心神耗弱』の根拠である学者の研究はあくまで「性格的な傾向を見る」にとどまり、攻撃性の異常な増加を示してはいない。 また弁護人は被告人Sが犯行当時「爆発的精神病質者」であったことを主張しているが、被告人Sは犯行当時異常な心理状態にあったとは考えられない。 被告人Sは本事件前から粗暴な犯行を重ねており「自己の衝動・攻撃性を抑制しようとしない危険な傾向」が顕著である• 「自分より強い者には衝動を抑制し弱い者には抑制しない」など自己の攻撃行動を区別している。 一家殺害事件の際もむしろ「状況に応じた冷静な行動」を取っていたため、行動制御能力に著しい減退はなかったことが認められる• 犯行動機・殺害方法・殺害された被害者数に照らして責任は誠に重大で、特に幼くして命を奪われた幼女(E)には深い哀れみを禁じ得ない。 被告人Sの弁護人側は判決を不服として同日付でへした。 上告審・最高裁第二小法廷 [ ] 第二小法廷(裁判長)は事件発生から丸9年となる(平成13年)3月5日までに被告人Sの上告審公判開廷期日を「2001年4月13日」に指定して関係者に通知した。 2001年4月13日に最高裁第二小法廷(亀山継夫裁判長)で上告審口頭弁論公判が開かれ、弁護人は死刑回避(原判決破棄)を、検察官は上告棄却を求めた。 被告人Sは犯行を深く反省しているほか、死刑は残虐な刑を禁じたにするもので、特に少年への適用は許されない」と主張した。 一方、検察官は「弁護人の主張は量刑不当・事実誤認で上告理由として認められない。 なんら落ち度のない被害者ら自分より弱い者に対する冷酷・残虐な犯行は許されず、被害者遺族も極刑を望んでいる」として上告棄却を求めた。 結審当初は「2001年夏までに判決が言い渡される見通しだ」と報道されていたが 、「最高裁で弁論が開かれた段階」で新たに弁護人に就任した弁護士・が他の弁護人2人とともに「事実認定を全面的に洗い直す必要がある」として最高裁第二小法廷に弁論再開の申し立てをした。 しかし申し立ては認められず、安田は上告審判決を前に被告人Sと面会した際に「とにかく生き延びよう。 生きるために戦い続けよう」と約束した。 2001年11月13日までに最高裁第二小法廷(亀山継夫裁判長)は上告審判決公判開廷期日を「2001年12月3日」に指定して関係者に通知した。 『東京新聞』(中日新聞東京本社)の記者から取材を受けた関係者は上告審判決直前の被告人Sについて「死刑確定を覚悟してはいたが、判決までの数日間は落ち着かない様子だった」と述べている。 2001年12月3日に最高裁第二小法廷(亀山継夫裁判長)で上告審判決公判が開かれ、同小法廷は一・二審の死刑判決を支持して被告人S・弁護人側の上告を棄却する判決を言い渡したため 、被告人S(当時28歳)の死刑がすることとなった。 同小法廷は判決理由で「被告人Sは暴力団関係者から要求された金銭を工面するために強盗殺人を犯しており、その動機に酌量の余地はない。 犯行は冷酷かつ残虐で、自らも被害者となった遺族Bの被害感情も非常に厳しい。 4人の生命を奪った刑事責任は極めて重大で被告人Sの犯行当時の年齢などを考慮しても死刑はやむを得ない」と述べた。 犯行当時少年の被告人に言い渡された死刑判決が確定する事例は1990年に最高裁で死刑が確定した永山以来で、最高裁が統計を取り始めた1966年以降では9人目で 、平成に入って発生した少年犯罪では初めてであった。 被告人S・弁護人は上告審判決を不服として最高裁第二小法廷(亀山継夫裁判長)に判決訂正申し立てを行ったが、この申し立ては同小法廷が2001年12月21日までに出した決定で棄却されたため、犯行当時少年としては永山以来となる死刑判決が正式に確定した。 少年犯罪に関しては死刑適用について判断が分かれる傾向が強いとされるが、本事件は第一審・控訴審・上告審と一度も死刑が回避されることなく確定する結果となった。 これにより死刑囚Sは戦後日本で37人目(永山への最高裁判決以降、および平成の少年事件では初)の少年死刑囚となった。 死刑執行まで [ ] 被告人Sは最高裁上告中の1997年から『東京新聞』(中日新聞東京本社)社会部記者・瀬口晴義と文通しており 、瀬口は死刑執行後に生前の被告人Sの人柄について「手紙・面会では『獄中生活で体重が120 kgを超えた』と嘆く一方で大腸がんを患った私を本気で気遣うなど、礼儀正しい性格で、その印象と残虐非道な犯行の差が最後まで埋まらなかった。 Sが口にした懺悔の言葉が本心からなのかどうは今でもわからないが、自分の命をもってしても償いきれない罪の大きさを自覚していたとは思う」と振り返った。 Sと瀬口が文通を開始したころにはを受けて少年法改正論議が沸騰していたが、被告人Sは瀬口宛の手記で「大人と同じように刑罰を下したところでいじめ・恐喝・殺人などなくならないどころか『これまで以上に陰湿なやり方』が増えるだけだ。 仮に少年法を改正しても凶悪少年犯罪が減少することはない」という考えを示したほか、「凶悪な少年犯罪を生む素地は『大多数の負け組の上に、一握りの勝ち組が君臨する社会構造』にある。 現代は『金か能力のある者』だけが『正義』と持て囃されて勝ち誇る社会だ。 子供でも一部の裕福で恵まれた人間以外は夢も希望も見ることもできない。 自分は『己の罪深さを恥じ真に償いを求める』ならば将来を求めてはいけないと思う」と述べていた。 また上告審判決期日(2001年12月3日)までに中日新聞社へ手記を寄せ、同判決を報じた『中日新聞』・『東京新聞』両紙の2001年12月4日朝刊記事で以下のような内容が掲載された。 この手記は上告審判決から9年後(2010年11月28日)に「ので初めて犯行当時少年の被告人(当時18歳)に死刑判決が言い渡された」と言及した『中日新聞』・『東京新聞』両紙朝刊コラムにてそれぞれ引用された。 「千葉地裁・東京高裁と二度の死刑判決を受けたことで『生き恥を晒し続けて自分の家族にさえ迷惑をかけるくらいなら早く死んで消えてなくなりたい。 早く生まれ変わって新しくやり直す方が楽だろう』と自暴自棄な考えに陥っていたころもあったが、自分を見た多くの人から『生きて償うべきだ』と言われたことで『生きていなければ感じられない苦しみを最後の瞬間まで味わい続けよう』と改めて決意した。 最後まで生き抜いて罪を贖える方法を模索したい」• 住職は中日新聞社の取材に対し「面会した当初は犠牲者の無念を思ってアクリル板越しに被告人Sへ怒りをぶつけたくなったこともあったが、第一審で死刑判決が言い渡されて以降は『生と死の境に立ち、命の重みを考え始めたのかもしれない』と思うようになった。 その後もSと面会するたびに被害者の供養を頼まれ、『Sは罪の大きさに苦しんでいる』と思ったが、被害者遺族の悲嘆を目の当たりにすれば死刑執行は因果応報だとも思う」と述べている。 なお「死刑廃止の会」(2006年当時)による 「1993年3月26日以降のについての調査(2006年9月15日付)」によれば 、に死刑囚Sは 2005年8月1日 - 2006年9月15日までの間に千葉地裁へ請求を起こしていたことが判明した。 第一次再審請求では死刑確定後に上告審で弁護人を務めていた弁護士が「犯行当時、死刑囚Sは心神喪失状態だった」と主張し 、弁護団はMRI検査のやり直しなども請求したが、死刑執行までに2度にわたり再審請求棄却が確定していた。 また弁護人・ は最高裁で弁論再開を申し立てた他の弁護人2人とともに 「事実関係の面に関しても未解明の部分がある」として、事実面における係争を含めて想定した上で次期再審請求のための準備を進め、死刑執行直前に再審請求書を作成していた(主張要旨は以下の通り)。 被害者の遺体に残された刺し傷と凶器(柳刃包丁)の形状の違い• 死刑囚Sは事件現場を長時間にわたって離れており(被害者Bを連れ出していた間)、その間に第三者が関与した可能性がある点• 被害者の遺体に残された刺し傷の場所・各被害者の死因などから、被害者4人全員に対する殺意の有無• 弁護団の主張する「重要参考人」が行方不明となっているため、弁護団は「死刑囚Sとは別にその人物が事件に関与している可能性がある」として行方を捜していた。 またSは死刑執行まで作家・と数十回にわたり面会を続けていたほか 、弁護士・一場順子 と約2か月おきに面会していたが、一場に対し「事件の情景がフラッシュバックし、殺害された被害者4人が自分に『お前を許せない』と言っているようで苦しい」と打ち明けたこともあった。 事件発生から四半世紀(25年) ・死刑確定から16年後の死刑執行で 、犯行当時少年だった死刑囚()への死刑執行は(108号事件)の死刑囚・の死刑が1997年に執行されて以来20年ぶりだが 、法務省が死刑執行について事案の概要などを公表するようになった2007年12月 以降では初の事例だった。 死刑執行当時、死刑囚Sは第三次請求が棄却されたため即時抗告中で 、Sは処刑直前に弁護人・一場順子宛の遺言として「裁判記録は(一場)先生の元へ」とだけ言い残していた。 当時は「再審請求中の死刑囚に対する死刑執行」は避けられる傾向が強く、近年では1999年12月17日 以来途絶えていたが、同年7月にの死刑囚(当時・在監)に対し法務大臣の命令で死刑が執行されて以来、2回連続で再審請求中の死刑囚が執行されたケースとなった。 同日に上川は記者会見で死刑執行を発表した際「再審請求中だからといって(死刑を)執行しないという考え方はとっていない」と述べた上で、犯行時少年に対する死刑執行に関しては「個々の死刑執行の判断に関わるため、個人的な考え方については発言を控える」と述べた。 同日、死刑囚Sの母親Yは出先の病院で東京拘置所から死刑執行の連絡を受け、同拘置所に向かったが、いったんは東京拘置所職員から「『遺体を引き取る』と意思表示する必要がある」として遺体との対面を拒否されたため、最寄り駅(・)ホーム上で待機していた。 その後、弁護人・安田 と合流したYは遺体を引き取るか否かに関係なく息子Sの遺体との対面を許可されたが、納棺されたSの遺体に触れることはできず、遺体の顔を覗くことしかできなかった。 安田は死刑囚Sの執行前は「弁護人とともに再審請求中の死刑囚に対する死刑執行はまずあり得ない」と考えていたが、この執行を「法務大臣から我々死刑囚の弁護人に対する『弁護人がいようが自力だろうが今後は再審請求中でも死刑執行する』という意思表示なのだろう」と受け止めたほか、「おそらく『第1次再審請求の結論が出るまでは死刑執行を見送るが、それ以降は見送る理由にはしない』ということだろう」 「今回の死刑執行は国家が自らの権力を見せつけるような『これまでの死刑執行とはまったく様相の異なるもの』だ。 いかなる躊躇・抵抗をも排除して有無を言わさずに死刑を執行する、すなわち国家からの『死刑執行に対する強固かつ積極的な意思表示』だ。 今後行われるだろうのら死刑囚13人への死刑執行を見据えた『地ならし』でもあるだろう」とも推測していた。 また安田は2018年1月25日に開かれた死刑執行抗議集会にて 「死刑執行から数日後に別の死刑囚・及び別の収容者1人と東京拘置所で接見した際『死刑囚Sは死刑執行よりかなり前から刑場へ連行される際も目立たない一番端の独房に収容されていた。 死刑執行当日の朝に独房から連れ出された 際には特に暴れたりせず、ごく普通の形で独房を出ていった』と伝えられた」と明かした。 死刑執行に対する反応 [ ] 事件当時少年でかつ再審請求中だった死刑囚Sの死刑執行を受け、「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム'90」(フォーラム90)は同日付で「まだ成長過程にあり更生の可能性のある少年への死刑執行は許されてはならない。 また、再審請求中の死刑執行は決して許されてはならない」などと抗議声明を発表したほか 、(日弁連)も同日付で会長名義の「死刑執行に強く抗議し、改めて死刑執行を停止し、2020年までに死刑制度の廃止を目指すべきであることを求める会長声明」を発表した。 また千葉県弁護士会(会長:及川智志) および駐日(EU)代表部もそれぞれ死刑執行への抗議声明を出した を発表した。 一方で「犯罪被害者支援弁護士フォーラム」(VSフォーラム)は同日付で共同代表の・両弁護士名義で「被害者遺族からすれば歓迎すべき死刑執行であり強く支持する。 死刑制度はで合憲とされている制度で、法律に従って死刑を執行するのは当然のことだ。 再審請求中および犯行当時少年であっても死刑執行を回避すべきではない」とする声明を発表したほか 、「少年犯罪被害当事者の会」代表・武るり子はの取材に対し「少年であっても罪に合った罰を受けることが犯罪抑止力につながる」と話した。 また元学長・(被害者学)は「『少年の更生可能性』という非科学的・曖昧な基準で死刑執行を回避するのは相当ではなく、事件の重大性・遺族らの被害者感情・社会影響を考えると今回の死刑執行は当然だ。 死刑執行の先送りを目的とした再審請求も多いため、再審請求中でも死刑執行対象から除外すべきではないが、法務省は死刑執行において『の可能性がないこと』を具体的に説明する必要はあるだろう」という見解を示した。 『』()は2017年12月20日付コラムで「死刑囚Sの判決確定は16年前でむしろ遅すぎた。 更生の機会に関しては刑事裁判の場で争われるものであり、法相にはその確定判決の是非を判断する職責はない。 法相の個人的信条で死刑執行の有無が決まるなら『』に著しく抵触するため、死刑が確定した以上は法相は粛々と死刑執行を命じるべきだ。 今回の死刑執行を契機に『国民が少年法改正の問題を考える』論議を提起することが望ましい」と主張した。 『週刊新潮』1992年3月19日号(3月12日発売)は「時代遅れ『少年法』でこの『凶悪』事件をどう始末する」というタイトルの特集記事を組み、記事中でSの実名を掲載した上で「被疑者Sの中学時代の顔写真」「Sが事件当時在住していた船橋市内のマンションの写真」を掲載した。 同記事は複数の識者意見を掲載して「少年法に対する問題提起」を目的に執筆・編集されており、実際に少年法の改正を訴える論調の記事となっている。 また『週刊新潮』は2001年12月13日号(同年12月6日発売)でも被告人Sの死刑が確定することとなった上告審判決について(当時・本名の「祝康成」名義)のインタビューを交えて報じたが、この際も被告人Sの実名・中学時代の顔写真を掲載した• 『FOCUS』1992年3月20日号はSの実名に加え、Sが千葉地検に送検される際の写真(当時の『FOCUS』記者・が撮影)を掲載した。 事件当時の実名報道に関して当時『週刊新潮』編集部次長であった宮沢章友は『産経新聞』・『朝日新聞』などの取材に対し以下のように回答したほか、千葉地裁で死刑判決が言い渡された際に『千葉日報』記者の取材に対し「無辜の人を冷酷に殺していく犯罪に『少年だから』という理由で保護すべき要素は微塵もない」と述べている。 「少年法が制定された当時と1992年現在では『肉体的・精神的ともに社会からの刺激が多い』という点で『少年』の概念が変わっているにも拘らず、『旧態依然とした少年法に従って20歳以下なら一様に実名を伏せる』ことは好ましくない。 犯行そのものも帰宅した家族を次々と殺害するなど凶悪で、少年法で保護すべき範囲を逸脱している。 実名報道するかどうかの判断はケース・バイ・ケースで、(ライバル誌の『』()が加害少年らを実名報道した)の際は『犯人グループのうち誰がどう手を下したのか』がはっきりしなかったために実名報道は見送ったが、今回は犯人が(Sの単独犯と)はっきりしているからこそ(実名報道という形で)問題提起をしやすかった」• 「今回の犯行は未熟な少年が弾みで起こしたようなものではなく、少年法で保護しなければならない『少年』の枠を超えている。 加害者の人権に比べて被害者の人権が軽視されており、少年による凶悪事件が増加している現在において『20歳未満ならばどんな犯罪を犯しても守られる』現行の少年法は時代遅れであり、それを問題提起する意味で実名報道した」• 「」 これらの実名報道に対しては(会長)が1992年3月25日付で「少年法の趣旨に反し人権を損なう行為だ」として「『良識と節度を持った少年報道』を求める要望書」を新潮社に郵送し 「マスコミが少年を裁くようなことをしていいのか」と問題を提起した。 一方、過去にの加害者少年4人を実名報道した『週刊文春』は本事件時は実名報道を見送り匿名報道としたが 、編集長・はその理由について「事件を受け編集部から『今回も実名報道すべきではないか』という意見が上がったが、以前の実名報道の動機である『少年法への問題提起』は以前の報道・それによって起こった論議から既になされたため、最終的に自分の判断で見送った。 しかし、今回も少年法に対して問題があるという姿勢は崩していない」とコメントした。 死刑執行後 [ ] その一方で新聞各紙は2001年12月の死刑確定時も被告人・死刑囚Sを実名報道せず匿名で報じ 、新聞・テレビの報道では2017年12月19日の死刑執行まで死刑囚Sの実名報道はなされていなかった。 しかしその後は「少年犯罪でも死刑が確定する場合については死刑執行前の判決確定段階で『更生可能性が消えた』として実名報道に切り替える例」が主流になりつつあり 、マスメディアは2017年12月の死刑執行を受けて「更生や社会復帰の可能性がなくなった」「国家によって人命が奪われる死刑の対象は明らかにされるべき」「事件の重大性を考慮」などの理由からそれぞれ実名報道に切り替えた。 『』() - 2004年に少年死刑囚の実名報道を是認する方針を決め 、「『国家によって生命を奪われる刑の対象者は明らかにされているべきだ』との判断から実名報道に切り替えた」と説明した。 (NHK)は2017年12月19日正午のにて死刑囚Sの実名を含めて死刑執行のニュースを報道したが、その際に「少年事件について『立ち直りを重視する少年法の趣旨』に沿って原則匿名で報道しているが、凶悪・重大な犯罪で社会の関心が高く、死刑が執行され社会復帰・更生する可能性がなくなったことから実名で報道した」と説明した。 『』()は「『国家が人命を奪う死刑の執行対象が誰なのか』は重大な社会的関心事であるため」 、『』()は「死刑執行により更生の機会が失われたことを考慮した」 、『』()は「事件の重大性・死刑が執行されたことを踏まえて実名報道に切り替えた」とそれぞれ説明した。 『』()はそれまで少年死刑囚について死刑確定時点でも匿名で報道してきたが、今回の死刑執行を受けて実名報道に切り替え、その理由を「確定時点では『再審・恩赦による社会復帰の可能性』などが残されていたことから『健全育成を目的とする少年法の理念』を尊重し匿名で報道してきたが、死刑執行によりその機会が失われたことに加え『国家による処罰で命を奪われた対象が誰であるかは明らかにすべき』と判断した」と説明した。 また同様に少年死刑囚を死刑確定時点でも匿名で報道してきた『』()・『』()も今回の死刑執行を受け「更生可能性がなくなった。 国家が人命を奪う究極の刑罰である死刑の対象者の氏名は明らかにするべきである」と説明した上で実名報道に切り替えた。 永瀬隼介と加害者Sの交流 [ ] (平成10年)10月から作家・(当時、本名の「祝康成」名義で活動)は本事件についての書籍出版を目的に東京拘置所で被告人S(当時最高裁上告中)と面会・文通を重ね 、2001年12月に死刑が確定するまで の約3年間にわたり事件の様々な関係者(Sの家族・被害者遺族・Sと結婚したフィリピン人女性の家族ら)への取材活動も含めてSの人物像・事件の詳細を調べた。 Sは永瀬宛の手紙で「完全に枯れ切ってしまう前に、潔く終わりにしたいと思います」と述べていたが、永瀬はSの態度について「当初は終始、誠実な姿勢は変わらなかったが、拘置期間が長引くにつれて感情の起伏が激しくなっていき、1999年12月17日に東京拘置所・で計2人の死刑囚の死刑が執行された 直後の1999年12月下旬からは様子が一変して精神的に不安定になった」と述べている。 また、被告人Sは幼少期に苛烈な虐待を加え、一家離散の引き金を引いた父親Zに対し「生まれつきの詐欺師」「他人の精神的苦痛など一顧だにしない奴」「一緒に死刑台に吊し上げてやらないと気が済まない」などと激しい憎悪の念を書き記していたほか 、女手一つで働きながら自分や弟の生活を支えていた母親Yや 幼少期に自分を溺愛していた祖父Xに対しても同様に憎悪の念を向け 、自身を「常識人の範疇を超えて偏った人格を持ち合わせた両親から生まれるべくして生まれた死刑囚」と評していた。 また被告人Sは永瀬宛の手紙で以下のように綴っているが、初めて永瀬宛の手紙を東京拘置所から送った際にはその手紙に香水を付けていたため、永瀬は「『独房で書き上がった手紙に香水を振りかけている大量殺人犯』とはどこか歪んでいる」と表現した。 「残された少女Bのために毎日祈り・お詫びの言葉をつぶやいてみても何にもならないどころか、自分勝手で独善的この上ない行為だ。 加害者側の自分がいくら熱心に経文を唱えようとも結局は『自分自身が自己満足するための儀式』でしかない」• 「最高裁で死刑判決(上告棄却)を受けて死刑囚となっても当分は生かされていることになるが、死刑とは『文字通り死ぬことで刑になる』から、刑務所で受ける懲役刑とは違い、労役などで罪を償うこともできず、ただ鉄格子の中で過ごすだけだ。 確定から何年か過ぎて平静を取り戻したころにいつか必ず死刑執行の日が来るが、それが決まっているのに毎日死の足音に怯えながら暮らさなくてはならない。 想像するのも嫌な生活だ」• 「これから先は何年も外界から一切遮断された獄中で誰とも会えず、希望も抱けずに平静を保って生きていく自信がないし、『死んでいくためだけにどうやって生きていけばいいのか』もわからない。 『死ぬことが怖くない』と言えば嘘になるが、それ以上に先のない毎日を怯えながら生きていかねばならないことの方が怖い」• 「次こそは絶対に真っ当な人間に生まれ変わりたい」 (平成12年)春に面会した永瀬が被告人Sに対し、手紙の内容に言及した上で「あなたにとって『本当の意味での反省』とは何か」と尋ねると、Sは「本当に謝るべき人々(被害者4人)を殺しておいて、今でも『反省して何にもならない』と思っている。 今でもどうやって反省していいのか分からない」と答えた。 また「手紙の中で殺害場面が記された箇所に入った途端、それまで整然としていた筆跡が『まるで別人が書いたかのように』突然大きく乱れていた。 殺害現場を書くこと・当時の自分を直視するのが怖いのか?」と質問されると「みっともない」と返したが、「『あのような事件を引き起こした自分が人間としてみっともない』ということか?」という質問に対しては曖昧な返答になったため、「『みっともないことをした自分を直視するのが嫌だ』ということになる。 『みっともない自分』を正面から捉えないで反省しても仕方ないだろう」と指摘された。 「自分の人生を振り返って何か言いたいことはあるか?」という質問には「それまでのことをすべてをなかったことにしてほしい。 自分という人間は『存在そのものが最初からこの世にいなかった』ことにできれば一番いい」と答えたが、永瀬 2004 はSのこの言葉に関して「この言葉を耳にして強い脱力感に襲われた。 Sはこの期に及んで『自分の人生の全てをなかったことにしたい』と口にするが、その真意は理解不能だ。 Sが抱える心の闇は私の想像よりはるかに大きい」と述べた。 永瀬は過去に(1996年発生)の死刑囚など殺人犯を取材した経験はあったが、Sについては「口では『切腹して死にたい』「潔く終わりたい」と殊勝に語るが、実際は生へのエネルギーが涸れない底知れぬ生命力の塊だ。 過去に取材したどの殺人犯よりもはるかに深い桁外れの闇を抱えていたため、その人物像を理解しようと接近を試みてはさらにその闇の中に巻き込まれていった」と形容している。 永瀬はSと面会など交流を重ねるにつれて次第に「このままではすまない。 手痛い代償を払わされるに違いない」と考えるようになり 、著書出版準備を進めていた2000年初夏には慢性的な精神的ストレスからを発症し、満員電車で帰宅していたところ気分を悪くして途中駅で下車した直後に意識を喪失し、プラットホームへうつ伏せに転倒したことで顎を強打し骨折・歯が砕けるほどの重傷を負った。 永瀬は当時の心境に関して単行本『19歳の結末 一家4人惨殺事件』()のあとがきで「私はSとの面会・本の差し入れ・文通など交流を重ねるうちに、Sに対し『悔恨と反省に満ちた真っ当な心』による懺悔の言葉などを期待していたが、4歳の幼女まで刺殺した悪鬼の所業の前ではどんな悔恨・反省も虚しい。 この本を書き終えて虚脱感・徒労感に支配されている」と述べている。 永瀬は2000年9月にそれまでの取材結果をまとめて新潮社から単行本『19歳の結末』を出版し 同書を獄中の被告人Sに差し入れたが、Sはその内容について同月中の永瀬との面会で「虚偽の描写が含まれている」と反論した。 Sがこの記述に憤慨した理由は、同書を読んだ弁護士から「『お前は(事件前に)こんなこともやっていたのに隠していたのか』と責められたため」だったが、永瀬 2004 は「自分がSに求めていたものは『同書に記されていた被害者や遺族の悲しみ・怒りの感情に触れ、それに対しどんな感想を述べるか』であってこのような些末なことではない。 許されるならばあの時、私は『お前が言うべきはそんなことじゃないだろう』とSの胸倉を掴んで揺さぶり諭してやりたかった。 その後も永瀬はSとの交流を続けたが、翌10月の面会中にはSが被害者Bを愚弄し「彼女は自分のことをすべて知っているのに本当のことを言わないし、あなた(永瀬)の取材にもまともに答えないとんでもない人間だ」などと発言したため 、永瀬は改めてその態度に失望し「『とんでもないのはお前だろう』と怒鳴りつけたくなるほどの激情に駆られたのをなんとか耐えた。 『この男は反省していない』と改めて実感した」と述べている。 永瀬とSの最後の面会は(平成13年)1月下旬(前年12月以来約2か月ぶりで、Sは「面会できることは世間との接点があって嬉しい。 これからもどんどん本を読みたいしあなた(永瀬)とも会いたい。 面会できなかった場合を含めて本を差し入れてもらってありがたく思っている」と感謝の言葉を述べ、永瀬から「どんな本が読みたいか?」と質問されると「『』(・)を読みたい」と返答した。 永瀬は「次回の面会時に『永遠の仔』を差し入れる」と約束し、それ以降も面会を試みたが、結果的にはこれが最後の面会となった。 それ以降、上告審口頭弁論が開かれ死刑確定が近くなったことから永瀬は「それまでに可能な限り話を聞こう」と考えたが、しばらくは手紙にも返信がなかったため「Sは精神的に動揺して返信できないのではないか?」と懸念したが、上告審弁論から約8か月後の2001年10月末になって久々に届いたSからの手紙では懸念していた「精神的な動揺」は感じられず「永瀬への挨拶・面会ができないことへの謝罪の文言・永瀬が定期的に差し入れていた『』(新潮社)に関する言及」が記されていた。 それから約20日後の2001年11月下旬には被告人Sから永瀬宛に再び手紙が届いたが、それ以降Sから永瀬への手紙は来なかったため、結果的にこれが「被告人Sが生前最後に永瀬宛に出した手紙」になった。 加害者親族のその後 [ ] 祖父Xの反応 [ ] 永瀬隼介(祝康成)の取材に対し、Sの祖父X(1999年当時76歳)は 獄中にいた孫Sについて「生きていても苦しい事ばかりで何もいいことはないしもう死にたい。 なぜSが今でも生きていられるか不思議だ。 自分がそのような事件を起こしたら耐え切れずに自殺する。 Sはろくでなしだとわかっていたが、4人も人を殺すなんて思っていなかったから事件当時はかなりショックだった。 あいつとはもう関わりたくないし、法に従えばいい」と述べたほか 、Sの父親(娘婿)であるZについて「自分はZを初対面の時から『人相が良くないし、真面目に働くような顔ではないから娘Yと結婚させたくない』と思っていたのに、Yは自分の言いつけをちゃんと聞いてくれなかった。 もしYが言いつけを聞いてくれていたらSはこの世に生まれていない。 いっそSはZ・Yが離婚した時にZにくれてやればよかった」などと述べた。 また事件後には店に客が来なくなり、事件後に複数店舗を閉店・売却したが、それでもXの借金は増える一方だった。 しかしその一方で「Xはアパートの家賃、犯行に用いた車の購入費のほか、ギター・オーディオの購入費なども祖父Xから代金を援助してもらっていた」 「Sは中学校に入学したころから祖父・母親に多額の現金をせびっていた。 Xは鰻屋の従業員の前で『また夜遊びか』と笑いながら、Sに1万円札数枚を手渡すこともよくあった」という報道もある。 XがそのようにSを甘やかしていた理由について、は「家業につなぎ留めておくため」と述べている一方 、『週刊文春』は「Yが息子Sを独居させた理由は家庭内暴力から自身や次男(Sの弟)の身を守るためだった。 Xが400万円以上するクラウンをSに買い与えた背景にも、単なる溺愛ではすまない事情があったのだろう」と述べている。 なお伴侶としてXと苦楽を共にし 「Sを最もかわいがっていた」という祖母(Xの妻)は被告人Sが控訴中の1995年に他界したほか 、跡継ぎになるはずだったXの長男(Sの叔父)は事件の3年前(1989年)にくも膜下出血で倒れ、44歳で死去している。 永瀬隼介は「(1998年 - 1999年にかけての)『の吹く時季』」にYが次男とともに暮らしていた家を取材したが、この時に応対したSの弟は顔・体格ともに兄Sと似てはいたが、永瀬に対し終始丁寧に応対していた。 その後、永瀬は母Yの帰宅を待って取材しようとしたが、Yは嗚咽しながら「あの子も今は反省しているのですからもうそっとしておいてください」と取材を断った。 識者などの分析・考察 [ ] 『中日新聞』は加害者Sの性格やその形成経緯について、Sの家庭環境などを踏まえながら「Sの『他人への思いやりを知らない本能むき出しの人間像』が形成れた背景には複雑な家庭環境があるのだろう」と報道した。 またはの著書『少年犯罪論』(1992年・)に寄稿した本事件の記事で、Sについて「ひと昔前なら確実に職人として成長できただろう境遇に生まれ、一度はその方向に進みかけたが挫折し、それが事件の誘因となった節がある」と考察したほか 、Sの生い立ちや鰻屋の同僚 の証言を踏まえ、Sが200万円を得るために一家4人を殺害した背景について「Sは父親が億単位の借金を作ったことにより両親の離婚を経験し、何度も転居・転校せざるを得なくなった。 それが体験の幻影のようにSの心の底にこびりつき、後に暴力団から追い詰められ『強大な他者の幻影』を見たことで自身を見失った。 (外部に助けを求められなかった)被害者BもまたSの怯えが伝染するかのように、Sの操り人形のように動いてしまったのだろう」と考察している。 『』1992年3月27日付記事はSの母親Yが元夫Zと離婚後も関係を断絶していなかったことにSが反発していた点に関して言及し、「別れたはずの両親がその後も付き合っていたことがさらに少年の心に屈折感を生んだようだ。 『祖父の愛情と父親への反発』という点ではの・を思い起こす。 (本事件と宮崎の事件)2つの事件を同列には論じられないが『複雑な家族関係が事件に与えた影響』は大きい」と述べたほか、ノンフィクション作家・は同記事にて「1988年にで当時中学生の少年が起こした両親・祖母の計3人殺害事件もそうだが、父母の愛情が何らかの要因で欠落すると『バランスを失った祖父母の愛情』で『抑制の効きにくい子』を育てることもあるのではないか」と述べた。 『週刊新潮』1992年3月19日号の記事などでは以下のような識者意見が掲載されている(肩書はいずれも当時)。 ・教授 - 「この事件は死刑に値する犯行。 残忍さではの(108号事件)と同等で、犯行の悪質性は以上ともいえる」• 板倉は第一審で死刑判決が言い渡された際にも『千葉日報』記者の取材に対し「1人で次々と4人を殺害した残虐性を考慮すれば犯行当時19歳の少年だったとしても死刑はやむを得ない。 もしこれが死刑でなければ最高裁の基準(永山基準)を無視することになる」と指摘している。 ・教授(後に被疑者Sの精神鑑定を担当)• 「もしSを死刑にできないようならばにすべき」• 少年法に詳しい弁護士 - 「現在は死刑廃止に向かっている時代だ。 少年の場合は『殺人が行われやすい環境だったかどうか』が争点になるため、この事件でも死刑は求刑段階ですら難しいだろう」• 元・ - 「現代は20歳未満だからといって甘やかしていられる時代ではないだろう。 運転免許でも18歳で取得できるのだから、凶悪犯罪を犯した少年が5歳や10歳の子どもと同じ扱いにされることはおかしな話だ」• 教授(刑事法)・ - 「死刑を選択しないぎりぎりの決断を期待していたが、裁判官は死刑廃止が世界的潮流となっていることを無視し、『量刑基準』から機械的に死刑判決を言い渡した。 死刑に凶悪犯罪への抑止力はなく、加害者Sを抹殺しても被害者感情を満足させる結果にはならない」• 少年事件研究会を主宰していた教授・(刑事法) - 「本件のような事件が発生すると『少年事件全体が凶悪化しており、厳罰化が必要だ』という論調が生まれ本質を見失いやすい。 しかし被害者の立場を考えれば死刑回避の決断は容易ではない。 裁判官の勇断を期待するためには死刑適用基準の1つである『被害者の処罰感情』を緩和することが必要で、国を挙げて思い切った被害者救済制度の確立に取り組むことが必要不可欠だ」 関連論文 [ ]• 「」『千葉敬愛短期大学紀要』第17巻、・、1995年2月15日、 22a-7a、。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 事件後の1995年に浦安警察署(葛南警察署から改称)から現場一帯を管轄するが分離発足し、2019年現在は行徳署が現場一帯を管轄している。 『D1-Law. com』収録の上告審判決文によれば地は東京都江戸川区・居住地は東京都。 家賃は7万円 (共益費込みで約10万1,000円)で 、1991年秋に家賃を滞納して以降は母親が代わりに振り込んでいた。 部屋には家具はほとんどなかったが「男1人暮らしの割にはきれいに片付いていた」状態だった。 なお、実名・イニシャルを掲載している一部文献で実名の漢字が誤読され読みが「S・M」となっている文献があるが正しくは「S・T」である(を参照)。 後の獄中生活により体重は120 kgを超え 、弁護人・はその体格を「自分の体の横幅を2つぐらい並べたほどの大きな体格」と表現した。 安田はSについて「あれだけ体が大きければ死刑執行の際にも刑務官はSの体を死刑台の上に持ち上げられないだろうし、絞首刑執行用の絞縄もその体重に耐えられないだろう」と考えたため、Sに対し「死刑執行回避のために体を大きくしろ」と提案していたが 、死刑執行後(2018年1月25日)に開かれた死刑執行抗議集会で 「体重に耐えられるほどの絞縄を用意した上で予行練習を周到に行って死刑執行に臨んだのだろう。 国家による周到な用意の元に実行された計画的な殺人だ」と批判した。 Sの母方の祖父Xは生まれつき視力が弱かったために兵役を免除され、直後の青年時代に東京都(土手沿い)でウナギの卸売業を興して周囲から「仕事の鬼」と呼ばれるほど猛烈に働き続けて事業を順調に拡大し、千葉県市川市・東部を中心に10軒近くの鰻屋を構える鰻屋チェーン店のオーナーとなった成功者だった。 チンピラと一緒だ」と快く思っておらず結婚に猛反対した。 しかし2人は駆け落ち同然で結婚して松戸市内にあったZの実家に新婚所帯を構え、なお結婚に反対していたXに初孫として産まれたSの顔を見せに行くと、祖父となったXは不本意ながらも結婚を認めた。 Yは息子Sが歩けるようになった直後からスイミングスクールに通わせ、小学校入学後からはピアノ・英会話を習わせた。 松戸市立和名ヶ谷小学校。 当時小学2年生。 祖父Xの援助で購入した高級マンションで、有名企業の社員・医者・実業家など高額所得者が多数在住していた。 (サラ金)だけでなくにまで手を出すようになったため 、借金は約3億円に上り 、• 浮気を責めた妻Yを殴る蹴るなど。 やがて夫ZからのDVでストレスを溜め込んだ母親YもSを虐待するようになった。 「何時間も正座をさせる」「食事を与えない」「徹底した無視」「真冬の夜中に外に放り出す」など。 一方で祖父Xや祖母はSをかなり寵愛していたため、Sは毎週末のように祖父X宅に泊まっていたほか、Xを「いつも怖いだけの父親とは違う、お金持ちで頼りになる働き者。 自分も祖父のように強くて立派な大人になりたい」と心から尊敬していた。 エホバの証人は過激なほどの徹底的な純粋性からキリスト教内部でも異端視されていたが、Sは「愛と平和を高らかに説く教え」に魅了された上、常に自分を温かく出迎えてくれては丁寧に教義を教えてくれた信者一家のことも気に入っており「聖書の教えを真剣に学べばいつか自分の両親もわかってくれる。 彼(この友人)の家のように『笑顔の絶えない平和な家になる』」と信じていた。 Sは永瀬宛の手紙で両親・祖父を忌み嫌い激しい言葉で非難していた一方、この友人やその家族に対しては「別人のように思えるほど優しく柔らかい描写」をしており 、エホバの教義を学んでいた日々について「(獄中生活を送るようになった現在も)無駄だったとは思っていないが、中途半端なまま引き離されてしまったことが惜しい。 純粋に神を信仰・崇拝していた当時の気持ちを踏みにじられなければ後の『神をも恐れぬ所業の数々』も少しは抑えることができたのではないか?と思った」と述べている。 永瀬宛の手紙でSは父Zに聖書を破られたことを「聖書・経典を破られたことは『神に背く裏切り行為』。 信者なら誰でも気が狂うほどの大罪だ」と述べた。 後にSは非行を繰り返していた中学時代に「自分は何のために生きているのか?」と考えた末に再びキリスト教に帰依しようとしたが、このころには既に「神に祈っても幸せにはなれない」と考えるようになっており、教会通いもすぐにやめた。 母Yは1983年3月に父Zと調停離婚してSとその弟の親権を引き取るとともにイニシャル「S」姓に復氏した。 当時は両親の離婚後に改姓していたことを周囲から好奇の目で見られ、転校先の担任教師が電話連絡網を作るためにクラス全員の前でSから電話番号を聞いた際、Sが「電話はうちにはありません」と答えてクラスメートばかりか担任にまで大笑いされた。 Sは『東京新聞』記者・瀬口晴義宛の手紙で「義務教育の9年間は一度も無邪気にはしゃいだ記憶がなく、尊敬できる先生にも出会えなかった。 小学校高学年時代はいじめを受け痣だらけにされて過ごした辛い時期だった。 人生をやり直すならそれより前まで戻らないと同じことをしてしまうと思う」と述べている。 Yは2人の息子とともにしばらく祖父X宅に身を寄せたが 、Sを溺愛しておりSからも慕われていた祖父Xも全財産を吐き出してZの莫大な借金を清算せざるを得なかったために業を煮やし、娘Yに絶縁を言い渡したため、SもX宅を訪ねることはできなくなった。 その一方で「不良のレッテルを張られると損をする」と考えていたため、地元ではおとなしい真面目な少年を装っており 、中学時代に住んでいたアパートの大家夫妻は「無駄口をたたくことがない礼儀正しい子供。 弟思いで本当にできた長男」という印象を抱いていた。 不良仲間たちの誘いに乗った理由は「他人に必要とされることが何より心地よかった」ためだった。 また、母親Yが家庭崩壊の元凶となった父親Zを「教育のため」と称して自分や弟たちに逢わせるようになったこともSの反抗的な態度を強める要因となったが 、Sは年齢を重ねるにつれてその忌み嫌っていた父親Zに似るようになったことを自覚し、それについても嫌悪感を抱いていた。 しかし、祖父Xの鰻屋で働いていたころにXから将来を心配され「お前は顔も声もZに近くなってきた。 このままだとあいつのようになってしまうぞ」と諫められた際には意に介していなかった。 高校受験を控えた中学3年生時には学習塾に通い「野球が強くて大学進学率も悪くない普通高校」を志願していたが 、志願していた・はいずれも不合格に終わったため、祖父Xの援助を得て堀越高校に入学した。 を目指していたが を志願したが、同校野球部の練習用グラウンドは 遠方の内にあったため 「通いきれない」という理由で断念し軟式野球部に入らざるを得なかったほか、学級のレベルも低く感じられたことなどから次第に高校生活に対する意欲を失い、繁華街を徘徊するなど不登校状態になっていった。 2年生進級直後に他校生徒への恐喝事件への関与が発覚したため停学処分になったが、自宅待機を命じられたにも拘らず無断外出・外泊を繰り返していたため、母親Yが高校側に退学を申し入れた。 働き始めた動機は将来を真剣に考えた末の決断ではなく「祖父Xの猛烈な働きようを見て『仕事はそんなに面白いものなのか?』と興味を覚えたから」に過ぎず 、親類からすれば働きようは「手伝いの真似事」程度でしかなかった。 また夕方過ぎからの出勤・無断欠勤も多く 、「タレを扱う仕事は汚い」と嫌がり、店の備品を足蹴にしたり猫を放り投げるなどした。 祖父Xを失明させる事件の1か月前(1989年12月ごろ)に店の金庫から6万円がなくなる事件があり、その事件でXから疑われたことでXを失明させる事件を起こした。 また1992年2月上旬には夜間に店のドアを破って侵入し、売上金の現金120万円を盗んだ。 Sの足の親指がXの眼球に突き刺さり 、Xは水晶体脱臼・硝子体出血の傷害を負い へ約2か月間入院した。 祖父Xは親交のある信用金庫職員・商工会関係者から「面倒を見てほしい」と頼まれ、少年鑑別所・少年院収容歴のある者や暴走族現役メンバーのほか、暴力団事務所に出入りしていた者も雇っていた。 高校入学後から以前に増して家庭内暴力が深刻化したため、母親Yは「Sに個室を与えれば収まるはず」と考えて一人部屋を与えたが、Sはさらに増長したためその目論見は裏目に出た。 母Yは耐え切れずにSを連れて警視庁の少年相談室へ相談に赴くなどした一方 、Sがトラブルを起こす度に、怪我をした相手の家に謝りに行き治療費・見舞金を払うなどしていた。 たばこは1日にラーク5箱程度を常用していたほか、酒はウイスキーを特に好み、ボトル半分程度を適量としていた。 また鰻屋の仕事を辞めてからは不良仲間たちとともに・・などさまざまな薬物を乱用するようになった。 後に著者(永瀬本人)と面会した際に「他人の血を見ることは興奮する。 暴力をふるううちに相手が弱り、自分に従うようになる姿は勝利の象徴だった」 「ひとたび強烈な傷害事件・強姦を成功させたことで変な自信を持ち『もう一度やってみよう』とエスカレートした」と述べている。 1990年9月に母Yが80万円で購入したオートバイで交通事故を起こし、肋骨8本を骨折して以降は治療が長引くうちに怠け癖がつき仕事を休みがちになった。 中学2年生だった(昭和61年)に同年齢の少女(中毒でほかにも複数の少年と関係を持っていた)と「愛情などなく性的快楽を得るためだけ」の性行為を経験し 、後に中学の同級生と交際するようになるまではとして関係を続けていた。 少女は当初自分の父親に対し「Sとは真剣に付き合っている。 彼はそんな悪い人じゃない」と弁明していたが、やがて父親の説得を聞き入れてSを遠ざけるようになり、これに激怒したSが少女宅に押し掛けたため、少女の両親は娘を親戚宅に預けた。 Sは永瀬宛の手紙で「交際相手の少女はとても寛容で、当時喧嘩に明け暮れていた自分をありのまま受け入れてくれたおかげで『本音をぶつけ合える相手』とともに平和に暮らしていた。 それなのに彼女の両親が『Sが娘に財布から金を盗ませるなどして誑し込み、弄んでいる』と因縁をつけて仲を引き裂いたせいで、殺伐とした世界に逆戻りさせられた。 『一応は彼女の親だから』という理由だけで躊躇したが、今思えば『あの時に感情に任せて彼女の両親を殺しておいた方がよかった』と後悔すらしている。 そうすれば(後の一家殺害事件のような)無関係な人間ではなく『正当な理由・動機付けのある殺人』で済んでいたはずだ」と述べている。 美容師・フリーターの女性と同棲を経験したが、Sによる暴力が原因でいずれも1,2か月で別れていた。 「東南アジア最大のスラム街」とされるマニラ近郊地区出身だった。 それ以前にもSは女性から結婚を持ちかけられたが、当時は「長期滞在が目的だろう」と考えて断っていた。 しかし女性の必死の懇願に折れたことに加え「彼女は家事が上手くできる上に自分に尽くしてくれる。 一緒に生活したら楽しいかもしれない」と考えて結婚を決意したが、母Y・父Zともに猛反対したため、両親の反対を押し切り1人で結婚手続きを取った。 Sは英字新聞を購読しており、取り調べに対し「英語・は不自由なく話せる」と供述していた。 永瀬 2004 は「1992年1月ごろに女性の妊娠が判明したが、女性は言葉が通じにくい日本の産婦人科を嫌がり『マニラの母親の下で産みたい』と訴えたため、1月26日にフィリピンへ帰国した」と述べているが 、女性の母親は永瀬の取材に対し「娘は妊娠していなかった」と答えている。 現場マンションは(現:)から南東約2 km に位置し 、に面していた(付近)。 千葉地裁で可能な限り公判を傍聴してきた被害者Aの元同僚は被告人Sに死刑判決が言い渡された直後、『千葉日報』記者の取材に対し「Aは仕事熱心でいい人だった。 小さい子(次女E)まで殺した被告人Sを許せない。 極刑にしてもらいたい」と怒りを露わにしていた。 夫婦仲は良好で、近隣住民は『読売新聞』記者の取材に対し「夫婦揃ってカメラボックスを抱えて事務所に出入りする姿を見ていた」と証言した。 母Dを目の前で殺害された直後に1回 ・父Aを殺害されSにラブホテルに連れ込まれた際に2回。 『読売新聞』は「Dは前夫との娘Bとともに出身地・熊本から市川市に転居して行徳駅前のマンションに部屋を借り写真の勉強をしていた」と報道している。 同居開始前後からは東京都で編集プロダクション会社を経営していた。 Dが第一子(後の次女Eとは別)を妊娠した際、夫Aは「子供は何人いてもいい。 立派な子供を産んでほしい」と喜んでいた。 Dは雑誌会社で「中村小夜子」のペンネームを用いて活動し フリーランスのライターとして料理雑誌などのコラムなどを担当していたほか 、幼いEを連れて取材に出たこともあった。 保育園の職員は事件直後、Eについては同じ保育園に通っていた園児たちに対し事件のことを伏せ「遠くに引っ越した」と伝えた。 事件1年前の1991年2月に自動車学校の合宿講習で運転免許証を取得、翌月(1991年3月)に母親Yの援助を得て433万円余りでクラウンを購入した。 ローンは4年間48回払いで、頭金50万円はそれまで乗っていた400 ccのバイクを売却した上でアルバイトで貯めた金を足して払ったが、ローンの支払いが遅れると母親Yが代わりに払っていた。 トランクの中には常に暴力事件で凶器として使用した鉄筋を柄に滑り止めのテープを巻いた上で3, 4本隠し持っていた。 Sは後述のように暴力団組員から200万円を要求されていたため 、『』()はこの点に関して「Sは『自分の車を売ればそれなりの金は工面できる』とは考えず盗みに走った結果一家4人を殺害することとなった」と報道した。 『週刊文春』ではこの110万円窃盗事件に関して「1992年2月上旬にXの鰻屋から売上金120万円をかっぱらったほか、同月下旬には親類宅に合い鍵で侵入して従兄弟(当時高校3年生)の大学進学準備金110万円を盗んだ。 親類は合い鍵で侵入されたことから『犯人はSに間違いない』と確信して所轄警察署に被害届を出したほか、Xも弁護士を帯同して千葉県警に『Sが犯人だ』としたが取り合ってもらえなかった」と報道しており、後述の親戚は事件後に同誌記者の取材に対し「この事件の時点でSを社会から隔離し拘束していればこんな凶悪犯罪は起きなかったかもしれない」と証言している。 永瀬 2004 は「Sはこの時にそれまでの鬱屈した気分が晴れ、『強姦は性欲の解消以上に(自分に)優越感・自信を与えてくれる』『セックスと暴力は繋がっている』と思った」と述べている。 また本事件で逮捕された後にこの強姦事件についても取り調べられたが、その当時は「どうせ捕まって同じ罪(強姦罪)になるなら学生時代に好きだった女の子を強姦しておけば本望なので納得できた」などと考えていた。 丸山 2010 は「Sは『(Bを)このまま帰すのはもったいない。 強姦してやろう』と考えた」と述べている。 また、この時にはBの自転車と衝突する前から割れていた車の窓ガラスについて「お前が割った」と言いがかりをつけている。 『フライデー』によれば当時Bは特に深刻そうな様子ではなく「身分証明書を見られた」などとは話していなかったほか、顔の傷に関しては別の友人に対し「高校で先輩にやられた」と話して友人たちから「負けずにやり返してしまえ」とけしかけられていた。 また、Sに切り付けられたBの頬の傷跡は第一審判決時点でも完治していなかった。 当時は平日の夕方近くだったが、SはB宅に入室するまで誰ともすれ違わなかった。 永瀬 2004 は「Sは当時『仮に誰かがいたとしても、それがB以外だったら彼女の知人のふりでもしておけばいい』と考えた」と述べている。 Sは永瀬宛の手紙で「今思えば預金通帳ならまだしも、ほんのわずかな現金を奪う目的で被害者一家に執拗にこだわり、自分の一生を捨ててまで犯行を成し遂げる価値があったとは思えない」と述べている。 Sは永瀬宛の手紙で「『年寄り1人が相手なら力で負けることはない』と短絡的思考を抱いていた」と述べている。 永瀬 2004 は当時のSの心境について「『少し痛い目に遭わせて力関係をわからせてやろう』と考えた」と述べている。 被害者Cの遺体の頸部には首の周りを一周する索溝が形成され、舌骨が左大角の中央部・右大角の中央部において骨折していたほか、右大角付着部においては広く出血を伴い、さらに甲状軟骨の左上角も骨折し、広く周辺に出血を伴っていた。 重度のだったSはCからかけられた唾液を汚らしく思い 、洗面所で頭・顔・首・手を何度も洗ったが 、「生まれて初めて人を殺めてしまった」という実感よりも「唾液を吐きつけたCに対する怒りや嫌悪感」の方が強かった。 予備のジュースを購入したのは「長期戦を覚悟して」のものだった。 その後、SはA・D夫妻の会社へ赴く前に室内を物色して小銭類を収集し、いつでも持ち去ることができるようにビニール袋に入れていた。 この包丁はその長さに加えて先端が鋭く尖っていたことから「十分な殺傷能力を有する物」だった。 Sは当時のDの態度を「何も持っていなかったら噛み付かれそうなぐらいの勢いだった」と回顧している。 創洞の長さは約4. 6 - 11. 3 cmに達し、左肩甲部3か所の刺創(刺し傷)は左肺に達していた。 また司法解剖時の所見によれば遺体の左胸腔内には凝血を含む血液約1200 ccが入っていた。 Sは後に捜査段階でEを刺殺した動機を「前夜テレビの前に座らせたらおとなしくじっと見ていたため、そのままにしておいたら眠った。 しかし自分がBとともに明け方に戻ってきたら泣きわめいていたので殺した」と供述した。 少女Bは当時、母親Dが目の前で刺されたのを見て極度に畏怖し、抵抗不能な状態に陥っていた。 Aは左肩甲下部を1回刺されたことにより左肺下葉を貫通し左肺上葉を損傷する創洞の長さ約15. 8 cmの刺創(十分致命傷になる刺し傷)を負った。 また長女Bは捜査段階において当時のAの様子について「床上に横たわり、起き上がろうとしても起き上がれない状態で苦しそうな様子」と述べていた。 Sは永瀬宛の手紙でAを刺した当時の感触を「人間の体は自分の予想以上に簡単に力が入っていった。 むしろ『鰻を捌く時の方が力が要る』と思った」と述べている。 郵便貯金総合通帳1冊(額面257万6,055円)および銀行総合口座通帳1冊(額面103万1,737円)。 司法解剖を担当した鑑定人・木内政寛は当時の被害者Aについて「ほとんど運動能力はなく瀕死状態で、立ち上がることはおろか会話することもできない状態だった」と推定した。 この時の刺創(刺し傷)は創洞の長さ約12. 7 cmで、左肺を貫通・損傷して心嚢・大動脈をも刺切するもので、身体の最枢要部分に1回目の刺創よりさらに重篤な損傷を生じさせるものだった。 ビル2階。 この時のSの態度は「他人の目を欺こうとした」ためとされ 、当時留守番をしていた知人従業員も「SがBの名前を呼ぶ声から『2人は友人だ』と思い込み、その時点では疑いを持たなかった」と証言している。 妹Eを刺殺する前後、Sは現場806号室から友人に電話を入れ「取り留めもない話」に興じていた。 遺体の傷は「右肩甲下部に刺乳創を形成し、右第六肋間・第七肋骨上縁を損傷して右肺の下葉・中葉・上葉を貫通し、更に胸郭前面で右第三肋骨・第三肋間を損傷して右胸部の刺出口に至る貫通刺創を形成し、創洞の長さは約12. 3 cmで、胸腔内には凝血を含む血液約200 ccを貯留していた」ほどの重篤な傷害だった。 この前後、Bは高校で同じクラブに入っていた近所に住む同級生の少女宅に「今日は休む。 部室の鍵を持っていけなくてごめんね」と電話していた。 Aは居間、Dは6畳の和室、EはDが死んでいた和室の隣の6畳の洋室、CはEとは別の7畳の洋室。 永瀬 2004 によればSはこの時「俺に殺されたいか、それとも一緒についてくるか」とBを脅迫して包丁を持たせようとしたが、Bは放心状態のまま床に座り込んで動かなかった。 また、この時Bに握らせた包丁は検察官による冒頭陳述で「家族3人を刺殺し、3人の血液が付着した凶器の包丁」とされている。 Sはその際に「俺はやっていない」と叫んでいた。 千葉県警広報課は事件当時、『朝日新聞』記者の取材に対し「県内で一般の家族4人が殺されたケースはいずれも(前)からなどに限られており、近年では例がない」と証言した。 なお県警の「被疑者Sが被害者B宅を狙った理由」に関する発表内容は当初「今月2月中旬、SがBを車に連れ込んで乱暴した際に住所・電話番号を聞き出した」というものだったが、その後「脅して身分証明書を奪った」というものに変わった。 事件解決後に『読売新聞』・『千葉日報』はそれぞれ3月11日付朝刊で「Sは警察官が踏み込んだ直後に逃走を図ったが、ナイフを所持していたため銃刀法違反容疑で現行犯逮捕され、署に連行された」と報道した。 10時30分になって千葉県警本部(千葉市中央区)の記者クラブに「市川市内のマンション一室で9時ごろ、家族4人が死亡しているのが発見された」と第一報が伝えられたが、捜査本部の取り調べに対しSは「Bとは昔からの友人」と虚偽の供述をした一方、完全な被害者であったBはショックで何も話せない状態だったため、捜査本部はSの供述通り「2人は友人」と判断した上でマスメディアに向けて発表した。 『朝日新聞』は後の検証記事で当時の状況について「県警からの発表を受けて『長女(B)も事件に関与か』という予断を持ったまま、午後から現場マンションで住民への聞き取り取材を開始したが、『夫婦仲は良かった。 長女Bは普通の女の子』という予断とは異なる回答が返ってきた。 しかし結果的には、『長女(B)の男女関係はどうか、素行はどうだったのか』という(県警発表に基づく)予断に基づいた質問に終始してしまった」と述べている。 この時に「強盗殺人容疑で少年Sの逮捕状を請求する予定だ」と説明されたが、逮捕状請求前の段階で逮捕が発表されることは異例の措置だった。 捜査幹部の1人は事件解決後に『朝日新聞』記者の取材に対し「2人が無関係と分かってからは逮捕前にその事実を発表するなど、報道陣に誤解を与えないように発表することを心がけたが、県警にも予断があったことは認めざるを得ない」と述べた。 同番組プロデューサー・は『朝日新聞』記者の取材に対し「今回はBを匿名で報道すべきケースだったが、VTRの編集で消し忘れた」と回答したが、他局プロデューサーは「編集の時間が足りないことはあっても、インタビューを撮る前に相手に対し『仮名で呼ぶので実名を言わないようにしてください』と念を押すなどの工夫が必要だ」と指摘した。 永瀬宛の手紙では「もし当時20歳だったら本事件(およびそのきっかけとなった傷害・強姦事件を含め)このような犯罪を犯すことはなかっただろう」と述べている。 また『東京新聞』記者・瀬口晴義宛の手紙では「犯行当時は少年法など熟知しておらず、法律など眼中にない衝動的な犯行だった。 もし少年法や死刑などについて考えながら事件を起こしていたなら、指紋が残らないように軍手をはめるなどしている」と述べている。 実際にはSに限らずらの死刑囚13人・()、()、宅間守()・加藤智大()など過去に殺人前科のない初犯で死刑が確定した死刑囚は多数存在する。 「永山基準」が示されて以降「殺害された被害者が1人でかつ無期懲役刑に処された前科がない場合」でも(殺人前科なし)・(殺人前科はあるが有期懲役)など最高裁で死刑が確定したケースが存在する。 コンクリート事件の約1年前(1988年2月)に発生したでは第一審(1989年6月・)で事件当時19歳少年に死刑・17歳少年にも(死刑相当の)無期懲役といった極刑が宣告されていた(最終的には両者とも無期懲役が確定)。 しかしSは永瀬宛の手紙では同事件について言及していない。 は著書『生身の暴力論』()にて「本事件の前後(1980年代後半から1990年代前半)にかけてはコンクリート事件(1988年11月 - 1989年1月発生)・(1988年2月発生)、(1994年9月 - 10月発生)など『想像を絶するようなあまりにも残虐な凶悪少年犯罪』が集中して発生した」と述べた。 千葉地検次席検事・甲斐中辰夫は『千葉日報』記者の取材に対し、その理由を「『被疑者Sの精神状態に異常がある』とは考えていないが、本事件の凶悪性・残虐性など事件内容を考慮して慎重を期した。 今後、被疑者Sの犯行当時の精神・心理状態や刑事責任能力の有無を分析する」と説明した。 なお当初の鑑定留置期間は90日間(1992年6月25日まで)の予定だったが 、千葉地検は1992年6月16日までに「鑑定期限を1992年9月上旬まで延長する」と申請した。 小田の精神鑑定に先んじて加害者Sに対し2度の精神診断が行われたが、心身鑑別の際に健康診査を担当した医師・今津清はSについて「精神分裂病の罹患は否定でき、薬物乱用による精神病やそれに等価の状態は認められないが、爆発的・惰性欠如および意志の持続性欠如を要素とする人格障害が認められる」という趣旨の判断を下した。 また捜査段階では医師・原淳が簡易鑑定を担当したが、原もSについて「意識清明で知能低下は認められず、感情の表出・疎通性も比較的良好だが、意志欠如・軽佻・抑鬱・情性希薄・気分易変などを呈する。 これが性格異常に基づくものなら情性欠如型・意志欠如型・爆発性精神病質で完全責任能力が認められるが、Sは高校中退直後から性格変化を来しており、精神分裂病の欠陥状態・前駆状態および同疾患の辺縁型当の疑いもなくはなく、さらにより詳細な鑑定が必要だ」と診断し、小田は原の診断結果を踏まえて精神鑑定を行った。 小田は精神鑑定の結果、加害者Sについて「正常な知能を有する反社会性人格障害の診断基準にほぼ合致する爆発性・冷情性精神病質者だが、犯行当時も現在も精神病またはそれに等価の状態に陥ってはおらず、器質的精神障害の存在も認められない。 意識状態は終始清明だった。 よって犯行当時は事理を弁識し、その弁識に従って行動する能力は喪失しておらず、その能力が著しく障害された状態とも認められない」と結論付けた。 逆送致の理由は「事件は社会を震撼させて世間に多大な影響を与えた。 被疑者Sは成人に近い年長者であるため、刑事罰を加えることにより規範意識を覚醒させることが必要だ」というものだった。 祖母Cが被告人Sへの咄嗟の抵抗としてSの顔に唾を吐きかけたことに対し、被告人Sが逆上したことで誘発された「偶発的犯行」と認定され 、Cへの強盗殺人罪についてのみ死刑ではなく無期懲役刑が適用された。 「Sは捜査段階・公判において一貫して『Cが抵抗しなくなるまで首を力の限り絞め続け、脈を調べてその死亡を確認するなどの行動を取っていた』ことを供述している。 公判でも『Cを殺してしまおうという気持ちがあったと思う』など、殺意の存在を認める趣旨の供述をしている」として確定的殺意の存在を認定した。 また、量刑理由でもCがSの顔面に唾を吐きかけたことに関して「Cはこの時Sに突き飛ばされたことで重傷を負っていたため、せめてもの抵抗として顔面に唾を吐きかけたことも理解できなくはなく、これだけの理由で『Cが危難を自ら招いた』とのみ評価することはできない」と事実認定した。 検察官は妹Eについて「Sは事件現場でC・D・Aを順次殺害して金品を強取し、その後でAの会社から預金通帳などを奪うためにいったん現場を離れたが、それは現場に再び戻ることを予定しての行動だ。 現にそれ以前に発見・収集し、ビニール製手提げ袋に入れておいた小銭類を現場に残していたため、一時現場を立ち去ったことを『強盗の現場を離脱した』と解釈することはできず、むしろ犯行を完遂するために現場に戻ったものにほかならない。 強盗殺人などの犯行が発覚することを阻止するためにEを殺害したことなどを見れば、E殺害も強盗の機会になされたもので、強盗殺人罪が成立する」と主張した。 被害者Cについて弁護人は「SにはCに対する確定的殺意は認められず、唾を吐きつけられたことに激怒して冷静さを失いとっさに首を絞めた。 この時『Cが死亡するかどうか』について考える余裕は全くなく、せいぜい『死ぬかもしれない』という未必的殺意があったにすぎない」と主張して確定的殺意の存在を否認した。 「刃物で突き刺すことでDが死亡することを認識・予見しながら、単に犯行の通報などを阻止するにとどまらず、進んで金品を強取する目的で敢えて刺突行為に及んだ。 無抵抗になったDを数回鋭利な包丁で突き刺し、刺されたDが大量に出血して苦しむ姿を見ても何ら救命措置を講じておらず、その後もDが既にいないことを前提に行動していた」として「被害者Dの死を意欲していた(=確定的殺意があった)とまでは認められないが、死に至る危険性は十分に認識・予見していたため、未必の殺意が認められる」と事実認定した。 冒頭陳述では「逃げ出されると思い刺した」と主張し、殺意だけでなく「金品強取の目的」も否定した。 弁護人は「Dへの刺突行為は金品強奪のための手段ではない」とも主張した。 最終弁論では父親Aと同じく強盗致死罪の成立を主張した。 Sは捜査段階ではDへの殺害行為に関して「Dが死亡するかもしれないとは思ったが、激情のまま敢えて意に介さず突き刺した」と供述したが 、公判では「Dが警察に通報するなどすることを防ぐために刺した。 当時は殺意までは持っておらず、突き刺すことによってDが死亡することも予見していなかった」と主張した。 また精神鑑定の際、この時にDのみを刺した理由に関してSは「Dは『頭が働くずる賢そうな人』のようなタイプだったので『伊達に年を取っていないから知恵が働くだろう』と思ったから」と述べた。 Aへの殺害行為については「十分な殺傷能力を有した柳刃包丁を使い、瀕死状態のAを敢えて再び刺突した。 その後Aの安否を心配した様子はなく、捜査段階でも(妻Dと同じく)『被害者が死亡するかもしれないことを認識しながら激情の赴くままに敢えて意に介することなく突き刺した』と供述しているため、被害者Aへの確定的な殺意が認められる」と事実認定した。 またEへの殺害行為に関しても「十分な殺傷能力を有する包丁を用い、刃先がEの身体を突き抜けるほどの強さでEの身体を突き刺し、Bに『首を絞めるとかして妹を楽にさせてやれよ』などと言い放ったことに加え、公判でも「刺した時には『もう死んでしまっても仕方ない』と思った」と供述したことなどに照らし「Eの泣き声などにより、一連の犯行が露呈することを恐れて確定的殺意を有した上でEを殺害した」と認定した。 弁護人は「殺意はないため強盗殺人罪ではなく強盗致死罪が成立するにすぎない」と主張した上、被告人S自身も「柳刃包丁で突き刺した時は「Aが死ぬかもしれない」とまでは考えなかった」と主張した。 弁護人はEの殺害について「朝起きて騒ぎ始めたので、事件の発覚を恐れて驚いて刺した。 強盗目的もない」と単純殺人罪を主張した。 千葉地裁は「Bが両親の会社から持ってきた通帳・印鑑を奪って以降はそれ以上金品を物色する行為に出ておらず、Bをラブホテルに連れ込み、806号室に戻ったのは会社に向かってから5時間近くが経過した6時30分ごろだった。 Sが前夜に収集してビニール袋に入れておいた小銭類はSが収集した時点で既にSに移転していたため、強盗殺人行為は遅くとも(小銭類の強取を含め)「会社の通帳・印鑑を奪った時点」ですべて終了したものとみるべきである。 よって被告人SはC・B・A各被害者に対する各強盗殺人の行為が終了した後、それとは別の機会に一連の犯行の発覚を阻止するという動機から新たな犯意に基づいて被害者Eを殺害したことが認められる」として「別個独立の殺人罪を構成する」と認定し、被告人Sの弁護人の主張を認め強盗殺人罪ではなく単純殺人罪を適用した。 罪状認否に先立ち弁護人は、検察側に対し「起訴状に記載されている殺意は、確定的殺意か未必的殺意か」と説明を求めたが、検察官は「立証段階で明らかにする」と回答した。 同月21日に検察側の論告求刑公判を行う予定だった。 起訴前に検察側の依頼で行われた小田の鑑定と異なり、福島の鑑定は被告人Sの矯正可能性に重点を置いた点が特徴だった。 精神鑑定を担当した福島は、被告人Sと直接面接した際の印象について「率直で正直な態度で、素朴な好青年と感じた」と表現した上で「被告人Sは事件について強い後悔・羞恥心を持ち、被害者に対する哀悼の気持ちを抱いていると感じた」と評価した。 千葉地裁 1994 は「その察するに余りある精神的衝撃の一端を窺わせる供述」と認定している。 本文で述べた通り論告求刑公判は最初の予定では1993年6月21日だったが 、1994年2月23日 、同年3月14日 、そして同年4月4日と結果的に3度にわたり予定が変更された。 弁護人は「小田は精神鑑定前から『死刑を適用すべき』と言及するなど偏見があり、その鑑定結果は信憑性がない」と主張した。 「死刑制度の是非を問う社会的な潮流がある」ことを主張するために証拠として提出した。 同連盟(会長:)は死刑判決が言い渡された際、事務局長名義で「少年法の精神に則り『被告人の今後の生きるべき指針となる判決』を期待したが、死刑判決には失望を禁じ得ない。 この判決を機に被害者遺族への補填・救済の在り方を見直すとともに、死刑存廃問題について真正面からの議論を期待したい。 そのために死刑に関する情報を公開し死刑執行を一定期間停止するを制定すべきだ」と声明を発表した。 『読売新聞』は「死刑事件では初めて死刑制度を巡る国内外の議論について言及した」と報道している。 安田は当時の被告人(第一審で死刑判決を受け控訴中、後に無期懲役が確定)の主任弁護人を務めており 、後に本事件上告審・再審請求審で本事件の被告人・死刑囚Sの弁護人を務めた。 「被告人Sの犯行当時の精神年齢は18歳未満で、少年法の精神に照らせば死刑を適用することはできない」と主張していた。 神田は退官後の2008年に『毎日新聞』の記者から取材を受け「人命が奪われるのだから(死刑でよかったとは思わない。 被告人Sに憎しみは持たないし、持ってはいけないと思う」と述べている。 、(被告人3人中2人)、といった死刑が確定した少年事件でも下級審(第一審・控訴審)では無期懲役判決が言い渡されていた。 永山事件以降(および平成)に発生した少年犯罪では「第一審から上告審まで一貫して死刑判決が支持されて確定した事件」は(平成28年)にの最高裁判決(一・二審の死刑判決を支持)が言い渡されるまで本事件のみだった。 この住職はSの母親らから説得を受けてSと交流するようになった。 住職は死刑執行翌日(2017年12月20日)に死刑囚Sの供養を行ったが戒名は与えなかった。 2016年時点では「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム'90」(フォーラム90)が実施している。 Sの死刑確定以降には2002年5月10日 、2003年5月末 、2004年7月末 、2005年7月31日と 、「死刑廃止の会」が計4回にわたり確定死刑囚について調査を行ったが、いずれもSについて再審請求をした旨の記述はない。 当時、新証拠として挙げたものは「(確定判決で問題となった)上智大学教授・福島章の精神鑑定結果」「死刑囚Sの成育歴・脳のMRI検査結果を考慮して再度行った精神鑑定結果」であった。 安田は死刑執行後に「月命日には被害者4人への謝罪の祈りをして冥福を祈っていた。 Sの獄中生活の長さ(逮捕 - 死刑執行まで25年)を考えればもう生き直したも同然だから死刑執行の是非を再検討する機会があっても良かったはずだ」と述べている。 一場は上告審から弁護団に加わり、死刑確定後も再審請求担当の弁護人を務めていた。 Sが生前最後に一場と面会したのは2017年10月末で、一場は死刑執行直後に産経新聞などの取材に対し「死刑囚Sは死刑執行まで新聞をよく読んでいた」と述べている。 もう1人の死刑囚は1994年にで3人(交際女性とその両親)を殺害して殺人罪に問われ、1999年に最高裁で死刑が確定した死刑囚。 一場は死刑執行を受けて『中日新聞』の取材に対し「解離性障害の可能性から責任能力の有無を争って再審を請求していた」と証言したが 、法務省関係者は『読売新聞』の取材に対し「死刑囚Sは(過去に棄却された再審請求と)実質的に同じ理由で請求を繰り返していた」と証言した。 法務大臣の死刑執行命令により、に収監されていた長崎雨宿り殺人事件の死刑囚が処刑された。 翌2018年7月、のら死刑囚13人に対し「7月6日に麻原ら7人・26日に残る6人」と2度に分けて死刑が執行されたが、うち麻原を含む10人は再審請求中だったため、4回連続で「再審請求中の死刑囚に対する死刑執行」がなされた。 安田は同日、偶然用事のために東京拘置所に向かっていた中で死刑執行を知った。 実際、後に行われたオウム事件死刑囚13人に対する死刑執行においては・・(以上2018年7月6日に死刑執行) ・・・・(以上2018年7月26日に死刑執行)の計7人が死刑執行時点でへの第一次再審請求中、および東京地裁の請求棄却決定に対する東京高裁への即時抗告・最高裁への特別抗告中だった。 この時には理由を「面会か何か」と伝えられたとされる。 日弁連死刑廃止検討委員会事務局長・は『中日新聞』の取材に対し「犯行当時少年の場合は判断能力が成人より劣っている上、家庭環境・社会の影響も強く受けている。 事件の責任を個人に負わせるのは相当ではなく、死刑を執行すべきではない」「死刑確定者も『犯人性への疑い』だけでなく『責任能力の問題』『量刑不当』など様々な論点で再審を請求しているため、そのような人々から裁判で争う機会を奪うのは問題だ」と意見を述べた。 同会副会長・藤岡拓郎は『千葉日報』の取材に対し「死刑制度自体の問題・犯行当時少年に対する死刑執行への反対姿勢」を明確にした上で「死刑を執行すべきではなく極めて遺憾だ」と非難した。 東京に大使館を置く26加盟国・・大使館が共同でに対し「死刑は残酷かつ非人間的で犯罪抑止効果は全く証明されておらず、(裁判の)誤審も免れない」として死刑執行停止を促す声明を出した。 同誌は1992年3月19日号・3月26日号と2週連続で組まれた特集記事でSを「牧和雄」の仮名で報じ 、後者でSの生い立ち・少年時代の自画像、中学時代の卒業文集などを掲載した。 の上告審判決(2011年3月10日)に関する報道が同方針の初適用例となった。 その際は『読売新聞』・『産経新聞』・『日本経済新聞』の3紙および各テレビ局も『朝日新聞』と同様の対応を取った一方、全国メディアで唯一『毎日新聞』は死刑確定時点でも匿名報道を継続した。 それ以降の少年死刑事件である・両事件でも各メディアは各々の対応を踏襲している。 死刑が確定すると面会は親族・弁護士に限定され、外部の人間との接触は原則として不可能になる。 (東京拘置所)および長崎雨宿り殺人事件(福岡拘置所)の死刑囚で、後者は当時請求中だった。 永瀬から「Yから取材を拒否された」と伝えられた際には「Yがとんだ無礼を働いて申し訳ない。 Yは自分たちの置かれた立場を理解していない」と述べている。 永瀬との面会で「本当に生まれ変われると信じているのか?」と質問された際には「生まれ変われると信じている。 そう信じていないと目標がなくなる(自分の場合は判決は目標にならない)」と答えている。 この事故の直後に病院で検査をした際「転倒の衝撃で顎の骨が割れている」と判明したため、永瀬はその治療のために3週間入院し、その間は東京拘置所にも通えなかったが「側頭部・後頭部からではなく顎から倒れ、砕けた歯・顎がクッションになったから助かった。 『顎が割れた程度で済んでよかった』と思う」と回顧している。 退院後に再び東京拘置所へ通うようになった永瀬は最初の面会で被告人Sに「怪我と入院で面会に来られなかった」という旨を説明し、Sから「人間は健康第一ですから身体には気を付けてください」と労われた。 同書に対しては同業者のライター・編集者から「よく取材した」と好意的な意見もあったが「読後感が悪い」と否定的な声もあり、「今後のためにもっと建設的な仕事をした方がいい」とも指摘された。 その内容は「1991年10月、当時フィリピン滞在中だったSは結婚相手の女性の兄(義兄)とともにマニラのカラオケスナックに来ていたが、その場で現地の警察官を殴って拳銃を突き付けられた」という記述で 、永瀬がフィリピンでSの義兄に対し直接取材した事実を基に帰国後、Sと面会して直接確認した上で記述したものだったが 、Sは「もしフィリピンで警官に暴行など加えていたら自分は今ごろ現地の刑務所に入っている。 その警官が金をせびってくるやつがいたから『うるさい』と腕で振り払ったら拳銃を突き付けられただけだ。 義兄は永瀬のことを自分の身内とでも思っていただろう」と述べている。 永瀬からその暴言を咎められると一転して「もっと早くあなた(永瀬)に出会っていればよかった。 塀の外で会っていれば自分も変わっていたと思うが、自分にはあなたのように叱ってくれる人間がいなかった」と発言した。 「永瀬と面会できない理由」に関しては「死刑確定までの時間が限られているので平日はほぼ毎日、修道会の方・関係者の方々と交代で面会するスケジュールを組んでいるため」と説明されていた。 Sは弟について「自分とは正反対の人間」と述べており、実際にSの弟と対面した永瀬も彼に対しては同様の印象を抱いていた。 朝倉の取材を受けた鰻屋の同僚は「XはSに鰻屋を継がせようと思っていたなら『自分の孫と思わず、厳しく鍛えてやってくれ』と現場に手配りをすべきだったが、実際にはその逆だった。 しかしSは叱られた際はいつも素直で、一度ウナギを焼かせてやった時は一人前に扱ってもらえたことが嬉しかったのか、そのことをあちこちで吹聴していた。 だから、Sは自分がきちんと面倒を見て厳しく指導していればあのような事件を起こさずに済んだはずだ」と証言し、朝倉はその同僚を「相手が誰だろうと歯に衣を着せず、筋を通す姿勢が身についていた」と評している。 1990年代初期当時は死刑執行(死刑執行一時停止)期にあり、・・・と4代にわたり法務大臣による死刑執行命令が出されなかった。 1993年3月26日、(警察官僚出身)が「法秩序、国家の基本が揺らぐ」(国会答弁)として死刑執行命令を発したことにより、3人の死刑が執行されたことでこのモラトリアムは終わった。 出典 [ ] 出典• 183. , p. 148. 147. 2017年12月19日閲覧。 の2017-12-19時点におけるアーカイブ。 2017年12月19日閲覧。 の2017-12-19時点におけるアーカイブ。 「」『産経新聞』産業経済新聞社、2017年12月19日。 2017年12月19日閲覧。 の2017-12-19時点におけるアーカイブ。 147. 148. , p. , pp. 15-16. , pp. 18-19. , p. , pp. 17-20. , p. , pp. 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最高裁、申し立て棄却」(朝日新聞社)• 『中日新聞』2001年12月22日夕刊社会面10頁「当時19歳の死刑確定」(中日新聞社)• 『日本経済新聞』2001年12月22日西部朝刊社会面17頁「当時少年の死刑確定 千葉の一家4人殺害」(日本経済新聞社)• 『産経新聞』2001年12月22日東京朝刊社会面「市川の一家4人強殺 当時少年の死刑が確定」(産経新聞東京本社)• 『産経新聞』2001年12月22日大阪朝刊社会面「当時少年の死刑確定」(産経新聞大阪本社)• 「」『産経新聞』産業経済新聞社、2017年12月19日。 2017年12月19日閲覧。 の2017-12-19時点におけるアーカイブ。

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