ものの あはれ 意味。 「もののあわれ」とはどんな意味ですか??古典でも出てきますが、、、

もののあはれ(もののあわれ)とは

ものの あはれ 意味

国学者、本居宣長が没 今日は何の日 享和元年9月29日 享和元年9月29日 1801年11月5日 、本居宣長が没しました。 江戸時代の国学者、文献学者として知られ、鈴屋大人 すずのやうし とも呼ばれました。 享保15年 1730 、宣長は伊勢松坂の木綿商・小津定利の次男に生まれます。 幼名は富之助、後に弥四郎、健蔵。 幼い頃より15歳まで、手習いをはじめ千字文、謡曲、四書を学びました。 16歳の時、江戸の叔父の店で一年ほど修行。 19歳の時、伊勢山田の今井田家の養子となり、紙商売を始めますが、21歳で離縁になります。 兄の宗五郎は江戸で独立していましたが、宣長が22歳の時に死去したため、宣長が家督を継ぐことになりました。 しかし家業よりも読書に熱の入る宣長に、母親は医者になることを勧めます。 そこで23歳で京都に遊学、堀元厚、武川幸順に医術を、また堀景山に師事して儒学、国学などを学びました。 景山は朱子学を奉じながら、反朱子学の荻生徂徠にも関心を持ち、また古典学者 国学者 の僧・契沖にも傾倒していたため、宣長も影響を受けることになります。 自分の姓を先祖の「本居」に戻したこともその表われで、以後、宣長は国学の道に入ることを決め、王朝文化に魅せられていきました。 26歳の時、武川幸順から一通りの医術を学び終え、さらに医療の実習を重ねて、2年後に松坂に帰郷。 28歳の時に松坂魚町で医者 内科・小児科 として開業しました。 そのかたわら、翌年には同じ魚町で古典講釈塾を開き、『源氏物語』などを町人に向けて講じます。 また『日本書紀』の研究に力を注ぎ、さらに『先代旧事本紀 せんだいくじほんぎ 』や『古事記』の研究にも取り組みました。 そんな折、賀茂真淵の著書『冠辞考』 『万葉集』に出てくる枕詞についての考察の書 に接し、国学の研究に拍車がかかります。 やがて宣長は、手紙で真淵に教えを乞うようになり、宝暦13年 1763 、伊勢神宮参宮のために松坂を訪れた真淵と一夜、初めて対面することができました。 そして、『古事記』の注釈について指導を願い、入門を申し入れます。 時に宣長、34歳。 翌年、真淵から入門を許されると、以後は手紙でのやり取りで教授が行なわれ、それは真淵が死去するまでの6年間続きました。 その後も宣長は、昼間は医者としての仕事に専念し、自身の研究や門人への講義は夜になってから行ないました。 代表的な著書に『古事記伝』44巻、『源氏物語玉の小櫛』9巻、『詞の玉緒』7巻、『玉勝間』15巻などがあり、詠んだ和歌は1万首に及ぶといわれます。 また門人は489人を数えました。 その半数以上は町人や農民です。 宣長の思想を象徴するものに、「もののあはれ」があります。 儒教的な「勧善懲悪」とは全く異なるその概念こそが、日本固有の情緒であり、王朝文学の本質であるとしました。 そして、その頂点こそが『源氏物語』であると位置づけます。 なお宣長は生涯、市井の学者で通しますが、63歳の時に紀州徳川家に松坂在住で仕官し、生涯に3度、和歌山を訪れて藩主などに古典講釈を行ないました。 また紀州徳川家に贈られた『玉くしげ別本』の中で、法を遵守するあまり人を軽々しく処刑することのないよう、死刑の緩和を求めています。 ところで彼が自宅の書斎を「鈴屋」と呼んだのは、自身が大変な鈴のコレクターで、珍しいものを多く所持していたとか。 また、甘いものに目がなかったという話もあるようです。 伊勢名物の赤福も食べたりもしたのでしょうか。 享和元年没。 享年72。

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もののあはれとは

ものの あはれ 意味

国学者、本居宣長が没 今日は何の日 享和元年9月29日 享和元年9月29日 1801年11月5日 、本居宣長が没しました。 江戸時代の国学者、文献学者として知られ、鈴屋大人 すずのやうし とも呼ばれました。 享保15年 1730 、宣長は伊勢松坂の木綿商・小津定利の次男に生まれます。 幼名は富之助、後に弥四郎、健蔵。 幼い頃より15歳まで、手習いをはじめ千字文、謡曲、四書を学びました。 16歳の時、江戸の叔父の店で一年ほど修行。 19歳の時、伊勢山田の今井田家の養子となり、紙商売を始めますが、21歳で離縁になります。 兄の宗五郎は江戸で独立していましたが、宣長が22歳の時に死去したため、宣長が家督を継ぐことになりました。 しかし家業よりも読書に熱の入る宣長に、母親は医者になることを勧めます。 そこで23歳で京都に遊学、堀元厚、武川幸順に医術を、また堀景山に師事して儒学、国学などを学びました。 景山は朱子学を奉じながら、反朱子学の荻生徂徠にも関心を持ち、また古典学者 国学者 の僧・契沖にも傾倒していたため、宣長も影響を受けることになります。 自分の姓を先祖の「本居」に戻したこともその表われで、以後、宣長は国学の道に入ることを決め、王朝文化に魅せられていきました。 26歳の時、武川幸順から一通りの医術を学び終え、さらに医療の実習を重ねて、2年後に松坂に帰郷。 28歳の時に松坂魚町で医者 内科・小児科 として開業しました。 そのかたわら、翌年には同じ魚町で古典講釈塾を開き、『源氏物語』などを町人に向けて講じます。 また『日本書紀』の研究に力を注ぎ、さらに『先代旧事本紀 せんだいくじほんぎ 』や『古事記』の研究にも取り組みました。 そんな折、賀茂真淵の著書『冠辞考』 『万葉集』に出てくる枕詞についての考察の書 に接し、国学の研究に拍車がかかります。 やがて宣長は、手紙で真淵に教えを乞うようになり、宝暦13年 1763 、伊勢神宮参宮のために松坂を訪れた真淵と一夜、初めて対面することができました。 そして、『古事記』の注釈について指導を願い、入門を申し入れます。 時に宣長、34歳。 翌年、真淵から入門を許されると、以後は手紙でのやり取りで教授が行なわれ、それは真淵が死去するまでの6年間続きました。 その後も宣長は、昼間は医者としての仕事に専念し、自身の研究や門人への講義は夜になってから行ないました。 代表的な著書に『古事記伝』44巻、『源氏物語玉の小櫛』9巻、『詞の玉緒』7巻、『玉勝間』15巻などがあり、詠んだ和歌は1万首に及ぶといわれます。 また門人は489人を数えました。 その半数以上は町人や農民です。 宣長の思想を象徴するものに、「もののあはれ」があります。 儒教的な「勧善懲悪」とは全く異なるその概念こそが、日本固有の情緒であり、王朝文学の本質であるとしました。 そして、その頂点こそが『源氏物語』であると位置づけます。 なお宣長は生涯、市井の学者で通しますが、63歳の時に紀州徳川家に松坂在住で仕官し、生涯に3度、和歌山を訪れて藩主などに古典講釈を行ないました。 また紀州徳川家に贈られた『玉くしげ別本』の中で、法を遵守するあまり人を軽々しく処刑することのないよう、死刑の緩和を求めています。 ところで彼が自宅の書斎を「鈴屋」と呼んだのは、自身が大変な鈴のコレクターで、珍しいものを多く所持していたとか。 また、甘いものに目がなかったという話もあるようです。 伊勢名物の赤福も食べたりもしたのでしょうか。 享和元年没。 享年72。

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十 宣長が「もののあはれ」を言い出さなければならなかった理由について。

ものの あはれ 意味

よく『源氏物語』は「あはれ」の文学であり、『枕草子』は「をかし」の文学であると言われます。 「をかし」は動詞「招(を)き」の形容詞形。 好意をもって招き寄せたい気がするの意が原義。 招き寄せたい、興味が引かれて面白い、美しくて心が引かれる、かわいらしい等々の意味になります。 実は『源氏物語』の「をかし」の用例の方が『枕草子』の用例数より多いのですが、『枕草子』は『源氏物語』の五分の一ほどの頁数ゆえに、「をかし」の出て来る頻度が大きいので、「をかし」の文学とも称されるわけです。 「あはれ」は本居宣長の『源氏物語玉の小櫛』に、「『あはれ』といふは、もと見るもの聞くもの触るる事に心の感じて出づる嘆息(なげき)の声にて、今の俗言(よのことば)にも、『ああ』といひ、『はれ』といふ、これなり」とあるように、感動詞「あ」と「はれ」との複合した語です。 その原義は広く喜怒哀楽すべてにわたる感動を意味しました。 平安時代以後は、多く悲しみやしみじみした情感、あるいは仏の慈悲なども表すようになりました。 なお、「もののあはれ」の「もの」は広く漠然というときに、その語の上に添えることばで、「もののあはれ」といっても本質的には「あはれ」と同じことだと宣長は説いています。 『源氏物語』には「もののあはれ」の情調が至るところにあふれています。 自然描写といい、人事描写といい、文章や和歌の表現といい、どこを取り上げても感動しないというところはありません。 「(ものの)あはれ」の文学といわれるゆえんです。

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