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のリビア革命によって政権を獲得後、に至るまで長期にわたり独裁政権を維持したが、によって政権は崩壊、自身も反カッザーフィー派部隊によって殺害された。 では一般に カダフィ大佐という呼称で知られている。 からまで1紙幣に肖像が使用されていた。 名称表記 [ ] カッザーフィーの名称は世界各国で実に多様な綴りで表される。 での一般的な発音に随うならば ガッダーフィ( Gaddafi)であり、等ではこの表記を採用している。 カッザーフィー自身は、にアメリカの学校に宛てた書簡では El-Gadhafi と署名している。 しかし彼の公式ウェブサイトの各言語版では El Gathafi, Al Gathafi など複数の表記が見られる。 では「 カダフィ、ムアンマル・ムハンマド・アブミンヤール( Qadhafi, Muammar Mohammed Abu Minyar)」名で本人特定をしている。 日本では「カダフィ大佐」という呼び名が一般的である。 特になどのメディア報道では「カダフィ大佐」という呼称がされている。 とカッザーフィーが慶事等で、を送り合う場合、日本語では「リビア国革命指導者カダフィ閣下」と表記され、彼自身の公式ウェブサイト(参照)日本語版でも敬称は「」である。 日本の新聞報道では、からまでは「カダフィ革命評議会議長」、1977年からまでは「カダフィ全国人民会議書記長」、1979年に一切の公職を退いてからは「カダフィ元首」「カダフィ国家元首」「リビアの国家元首カダフィ前書記長」などと表記されていた。 しかしリビアは公式には「」()を標榜しているために政府やは存在しないことになっている。 このためか、あたりからは「リビアの最高指導者カダフィ大佐」と表記されるようになった。 読売新聞は、以降、彼本人が「もう軍人でも大佐でもない」と言っているとしてそれまで使用してきた「リビアの最高指導者カダフィ大佐」の表記をやめ「リビアの最高指導者カダフィ氏」と表記している(2011年東京本社版朝刊国際面より)。 英訳: )と呼ばれている理由については諸説がある。 いずれの説でも、カッザーフィーが敬愛するの大統領が「陸軍大佐」であったからそれに倣った、という点は一致している。 なお、リビアの事実上の国家元首が軍の中堅幹部階級である「大佐」であることに違和感を覚える向きも多い が、リビアは建前上は「国家元首」の概念そのものを否定しているのであり、リビアの国家元首をあらわす称号が「大佐」だというわけではない。 「大佐」はニックネームであるという説 エジプトのナーセルの地位が大佐であったため、自らもニックネームとして大佐を名乗ったのが定着した。 また2011年2月23日の中日新聞及び東京新聞国際面の特派員記事によれば、カッザーフィーは軍籍を離れて久しいが、「リビアでは、元軍人に敬意を払うため、退役した時の最終階級で呼ばれる慣習がある」ため、現在もニックネームで大佐と呼ばれているに過ぎないという。 その後も、革命の初心を忘れないようにということで大佐の階級のまま現在にいたっている。 在東京のリビア人民局(事実上の大使館)はこの説明を採っている。 ただし、カッザーフィー自身は「私はもう軍人ではないので『大佐』と呼ばないで欲しい」と発言しているという。 生涯 [ ] 生い立ち [ ] 、カッザーフィーは、リビアの地帯に住む(化したのカッザーファ部族)の子として、で生まれた。 の学校で初等教育を受ける。 の影響を受け、エジプト自由将校団の中心人物であるガマール・アブドゥル=ナーセルのに魅せられ、アラブの統一による、特に圏への対抗を志す。 のでは反運動に参加する。 で中等学校を卒業、歴史に特に興味を示した。 軍人として [ ] にのに進んだ。 在学中から仲間たちと王家打倒を計画し自由将校団の組織を始める。 に卒業すると留学に派遣され、一年後に帰国して通信隊のとなる。 ただしイギリスに留学経験があるものの英語は苦手のようで、1986年4月に米軍がトリポリを空爆し米・リビア関係が極度に緊迫した時期、アメリカのある小学校の生徒たちがカッザーフィーに世界平和を求める手紙を書いて送ったところ、カッザーフィーは全員に英語で返事を書いたが、文法やつづりが間違いだらけだったという逸話がある。 2007年8月の朝日新聞国際面の特集でも「カダフィ大佐は外国要人と会談する際に最近、英語も上達してきたようだ」との特派員の記述がある。 政権掌握 [ ] 、カッザーフィーは同志のたちと共に首都でを起こし、政権を掌握した。 病気療養のためにに滞在中であった国王は廃位されて王政は崩壊、カッザーフィー率いる新政権は共和政を宣言して国号を「」とした。 同年11月に公布された暫定憲法により、カッザーフィーを議長とする革命指導評議会(日本のメディアは終始一貫して「革命評議会」と呼称していた)が共和国の最高政治機関となることが宣言された(カッザーフィーが革命指導評議会議長と公表されたのは翌年)。 カッザーフィーはより「文化革命」を始め、とととを融合した彼独特の「 」(と訳される)という国家体制の建設を推進していった。 翌年には「政治理論の研究に専念するため」として革命評議会議長職権限をナンバー2のジャルード少佐に委譲した(あくまで権限移譲であり、退任はしなかった)。 にはに倣い 、自身の思想をまとめた『』という題名の本を出版した。 緑とは、イスラームのシンボルカラーで、社会主義の赤に対して「イスラム社会主義」を象徴する。 そして、カッザーフィーは人民主権確立宣言を行い、「ジャマーヒリーヤ」を正式に国家の指導理念として導入した。 これにより、国号も「 社会主義リビア・アラブ・ジャマーヒリーヤ国 」(に「 大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国」と改称)に改められた。 ジャマーヒリーヤ体制のもと、国権の最高機関として全国人民会議が設置され、カッザーフィーが初代全国人民会議書記長(国会議長職に相当し国家元首としての権能も有した)に就任した。 その後カッザーフィーはに全国人民会議書記長を辞任して一切の公職を退いたが、「革命指導者」の称号のもと、実質上の元首としてリビアを指導した。 汎アラブ主義・反米主義路線 [ ] カッザーフィーは、ナーセルのの後継者としてにはエジプトの、のと組んで汎アラブ主義三か国によるを構想したが、本格的な統合を見ないまま5年後に解消している。 1970年代はカッザーフィーの汎アラブ思想に振り回されたエジプトのサーダート大統領からは「頭のてっぺんから足の爪の先まで狂っている男」と評されており、に ()首相を派遣しての購入を申し出て中国政府を驚愕させたこともあった。 後にリビアがの査察を受け入れた際に中国製の核爆弾設計図が報告されるもこれはから流入したものとされる。 2008年4月、とカッザーフィー カッザーフィーは PLO の有力かつ公然の支持者であった。 そのためにサーダート大統領がと和平したエジプトとの関係を決定的に悪化させた。 また、資金援助などを通じてを中心に影響力を維持していたほか、地域機関である CEN-SAD を創設し、における影響力拡大の足場としていた。 当時のカッザーフィーの欧米諸国との関係は常に対立的で、アラブ最強硬派と目されていた。 の駐英リビア員による反リビアデモ警備をしていた英国射殺事件、1985年の1986年の西ベルリンディスコで爆破事件などテロ支援の問題から欧米との関係は悪化の一途をたどり、とのやに対する過激派のを支援した疑惑がもたれていた。 それに対し、アメリカはカッザーフィーの居宅を狙って空爆する強硬手段()を取り、カッザーフィーをしようとした。 カッザーフィーは外出しており危うく難を逃れた。 の死者270人を出したはリビアの員が仕掛けたテロであるとされるが、カッザーフィーは容疑者の引渡しを拒否し、国連制裁を受ける。 そのためリビアは当時のの政権から「」「狂犬」として名指しの批判を受け、以後アメリカとの対立は続いた。 この経験から、以降は住む場所を頻繁に変えていたという。 また、この空爆の直前、作戦に反対だったイタリア政府(当時政権の座にあった首相、外相の決断による)から極秘に空爆を通告されていたことが後日判明した。 汎アラブ主義に対する評価はさまざまであるが等一部保守派の中にも死後に「カダフィーの内政やテロ支援での独裁政治はともかくのをから取り戻し国民にも一定の繁栄をもたらした。 」と評価する声もある。 冷戦後の路線 [ ] 2006年 アメリカによる経済制裁を受けて以降、カッザーフィーの態度には変化が訪れる。 にカッザーフィーはトリポリにある刑務所の壁を自らブルドーザーを運転して破壊、囚人400人を恩赦により解放するパフォーマンスをおこなった。 こうした的な派手なパフォーマンスで国民から支持を得る一方で、にはパンナム機爆破事件の容疑者のへの引渡しに応じ、8月、リビアの国家としての事件への関与は否定しつつも、リビア人公務員が起こした事件の責任を負うとして総額27億ドルの補償に合意した。 カッザーフィーは、のに際して、の中でに対する激しい非難を表明した指導者の1人であり、世界的なテロ批判の風潮をリビア国内のイスラーム過激派組織「」の封じ込めに利用した。 さらにはの後、政権率いるアメリカなどによって新たな攻撃対象にされるのを恐れてか、末には 核放棄を宣言し査察団の受け入れを行った。 アメリカなどはこれらの対応を評価しそれまで行っていた経済制裁などを解除し、テロ国家指定から外す措置を取った。 そしてにリビアとアメリカの国交正常化が発表された。 リビア政府はパンナム機爆破事件などの遺族補償として、15億ドルを米政府に支払った。 一方の米側も、一連のテロの報復として米軍機がリビアを空爆した際の民間被害に対し、3億ドルの支払いに応じていた。 2008年10月にはアメリカ人犠牲者への補償金の支払いが完了し、国交を完全に正常化。 7月のでは、夕食会の記念撮影の際に米大統領と握手を交し、国交正常化を印象付けた。 なおオバマ大統領についてカッザーフィーはリビア国内での演説で「オバマはイスラム教徒である」との誤った認識を語ったことがある。 こうした態度の変化には、カッザーフィーの政治的関心が、各国間の対立が激しくて進展を見せない「汎アラブ主義」から、欧米との利害対立が比較的少ないといわれている「」に移行しつつあるのでは、と指摘する意見がある。 事実、にで開かれた OAU 首脳会議に、長年同機構とは疎遠であったカッザーフィーが出席して地域統合の必要性を唱え、のアフリカ統一機構からへの改組ではリビアは主導的な役割を果たした国の1つだった。 2009年9月にリビア革命40周年記念式典が行われ、リビア原油の主要輸出先であるの首相が植民地支配の謝罪・賠償合意に訪問し、式典にはの大統領、の大統領、の大統領、のハマド首長、の大統領、の副大統領らが姿を見せ、最高指導者のカッザーフィーと笑顔で握手するなどした。 リビアの国営通信社によると約50カ国から首脳や閣僚らが参列したが西側諸国は参加せず多くはアフリカや中東諸国だった。 2009年国連総会での演説 [ ] 態度を軟化させたとはいえその特異な言動と舌鋒は衰えを見せず、に初めて出席した国連総会では、郊外のにの伝統に則りテントを張り、そこを宿にした。 また一般演説の席上、国連安保理を「テロ理事会」と批判。 にのみ与えられている拒否権を、の前文で謳われている加盟国の平等に反するものと批判し、演壇から国連憲章を投げ捨ててみせ大国による体制を批判したほか 、「が作りたかったのはだったのだ。 だったらのように作らせてやればいい。 バチカンがわれわれ()にとって危険な存在だろうか」と発言。 さらに「オバマがずっと執権していればいい。 オバマはアフリカの息子であり私の息子でもある」、「元大統領が暗殺されたのはイスラエルに査察団を送り込んだため。 調査した方がいい」「豚インフルエンザ(2009年新型インフルエンザ)はワクチンを売るために人工的につくられたもの、ワクチンは無料で提供しなければならない」などと発言した。 カッザーフィーの演説は規定の時間である15分を上回る、1時間36分の長時間にわたった。 この演説に対してオバマ大統領、国務長官などは、はじめから退席。 大統領のも途中で退席。 矢継ぎ早に言葉が飛び出す長時間の演説に、国連のの士が疲れきり、途中で交代する場面も見られた。 なお、この際に国連憲章を投げ捨てた行為は、2年後に同じ国連総会の場で、自らの政権を打倒したの執行委員会委員長(暫定首相)によって批判されることになる。 政権崩壊 [ ] 隣国のの影響を受け、2月、カッザーフィーの退陣を求める欧州の影響を受けた大規模な反政府デモが発生。 国民に対し徹底抗戦を呼びかけたが欧米を中心とした軍事介入と、欧州に援助された旧王党派などの反カッザーフィー派の蜂起を招き、までにカッザーフィーは自身の居住区から撤退。 反政府勢力により首都全土が制圧され、政権は事実上崩壊した( )。 内戦が展開するなか、に国連安保理は全会一致でを採択、に国連安保理から付託を受けたはを犯した疑いでカッザーフィーに逮捕状を請求し 、に主任検察官から要請を受けたは身柄拘束のためのを行った。 殺害 [ ] 詳細は「」を参照 8月に事実上政権が崩壊した後も抗戦を続けたカッザーフィーだったが、9月21日には評議会軍が南部サブハを制圧、更に10月17日にバニワリドを制圧し、2011年10月20日、リビア国民評議会は旧政権派の最後の拠点であった周辺でカッザーフィーが死亡したと発表した。 死亡の経緯については陥落したスルトから複数の護衛車両と共に脱出を試みた所を軍(の戦闘機との )による航空攻撃を受け 、破壊された車両から「近郊の下水排水口に逃げ込んだ所を反カダフィ派部隊に拘束」され、「その場で死亡した」という点では国民評議会、NATOを初めとする関係勢力、各国報道機関などで概ね一致している。 しかしこの様な結果になった経緯については大きく異なる見解が出されている。 リビア国民評議会は「カッザーフィーをベンガジなどの主要都市に移送する予定であった」が、「途中で旧政府軍との戦闘が発生し、その銃撃戦に巻き込まれて死亡した」と公式見解を発表した。 だが複数の消息筋は旧政府軍との戦闘はなく、カッザーフィーに対するとして民兵が射殺したと報道された。 また殺害直後の現場を撮影した映像が流出し、そこではカッザーフィーの血塗れの死体を取り囲んで歓声を上げるの集団が映されている。 また更に死体を半裸にして地面に投げ出す、殴る蹴るなどの暴行を加えるなどの非倫理的行為が行われている。 などの報道機関がこの事実を報道するとカッザーフィーの死亡経緯についての国民評議会の見解に大きな疑問が投げかけられた。 国際法において戦時の処刑は不法行為であり、本来であればカッザーフィーに対する処分は公の裁判を経て決める必要があり、またカッザーフィーにはその権利がとして認められていた。 もし意図的に捕虜にしたカッザーフィーを処刑したのであれば国際法違反となり 、国際社会からの批判は避けられない。 国連はリビア国民評議会に「カッザーフィー死亡の経緯について追加調査と説明を行う義務がある」と勧告した。 は「新政権は(旧政権のような)虐待の文化と決別しなければならない」として、復讐を名目としたはカッザーフィー政権への反乱の正当性を失わせると指摘した。 NATO軍は自軍の攻撃がカッザーフィーの拘束・殺害双方において決定打となったのではないかとの報道について、「(カッザーフィーが)乗っているのは知らなかった。 個人は標的にしていない」と戦争犯罪に加担した可能性について釈明に追われた。 21日、インターネットに殺害時の映像を掲載した反カッザーフィー派兵士は「自分が殺害した」とした上で、殺害の理由については「ベンガジかのいずれに連行するかで議論になり、自軍の拠点に連行できる見通しが無くなった為にその場で処刑した」と述べたと報道されている。 この説の場合、民兵間の口論に巻き込まれる形で処刑された事になる。 またこの兵士はカッザーフィーが捕らえられたのは下水排水口ではなく路上であり、NATO軍の車列攻撃は無関係であると主張している。 他に同じくカッザーフィー殺害を主張する少年兵士が存在しており、カッザーフィーが所持していた金色の拳銃を奪って射殺したという。 22日、カッザーフィーの遺体はリビア西部のに運ばれ、埋葬方法や時期についての議論がまとまるまでに遺体の腐敗を防ぐため、ミスラタにあるショッピングセンターの大型冷蔵室に遺体を保管する事が決定した。 同日中に生存説などを払拭するために遺体の一般公開が行われ、カッザーフィーの遺体を一目見ようと数百人が行列を作ったという。 遺族関係者などはカッザーフィーの故郷で死亡地点でもあるスルトへの埋葬を求めていたが、国民評議会は最終的にこれを拒否し、10月25日の未明に砂漠の中の秘密の場所にカッザーフィーの遺体を埋葬したと発表した。 遺体を埋葬した場所がカッザーフィーの支持者によって「聖地」にされることを防ぐため、国民評議会は遺体の埋葬場所を公表しないとしている。 カッザーフィーの死の報を聞いたリビア国民が歓喜している写真や映像が全世界に配信され、改めて独裁政治の抑圧の凄まじさを死してなお見せ付ける結末となった。 さらに、に当時30歳の男性が、反体制テロリストの嫌疑を掛けられてのバスケットボール場で多数の児童たちを立ち会わせたにかけられ、コート内でに処せられるまでの一部始終を撮影したテープがの関係者により発掘された(提供したのは処刑された男性の兄弟だった)。 この映像はした上で公開された。 (詳細はを参照)。 この処刑はカッザーフィー政権初の公開処刑とされ、映像はリビア国営テレビでリビア全土に中継されていた。 国際関係 [ ] アラブおよびその周辺 [ ] エジプト エジプトのガマール・アブドゥル=ナーセル大統領に心酔しており、で政権を握った翌年に初めてエジプトを訪問、ナーセルと会談している。 が、直後にナーセルは急死、その後、エジプトとリビアは20年にわたって友好、敵対の関係を繰り返すことになった。 当時、を唱えていたカッザーフィーは、エジプトを訪問しに対し、エジプトとリビアの合併を執拗に迫り、「サーダートが合併に合意するまで帰国しない」と主張しエジプト側を大いに困らせたことがある。 にエジプトとイスラエルが和解するやカッザーフィーは、、シリアとともに反エジプトの急先鋒に立ち、国交を断絶し、エジプトをから追放した。 そしてエジプトと同じだった国旗を一夜にして緑一色に変更した。 その後もカッザーフィーはサーダート政権の打倒を繰り返し呼びかけ、、実際にサーダートが暗殺されるとを通じ「いかなる暴君にも必ず終りがある。 自由の戦士たちよ、おめでとう」と祝福の声明を出した。 後継の政権に対しても敵意をむき出しにし、にはでクーデターが起きた際に「エジプト国民もムバーラク政権も打倒せよ」と呼びかけ猛反発を買った。 5月に開催されたではエジプトの20年ぶりの連盟復帰が議題にされることになっていた。 これにカッザーフィーは強く抗議し国営を通じ「エジプトが復帰するなら絶対に会議に参加しない。 いかなる理由があろうと絶対に認めない」と強硬姿勢を示していた。 が、突然方針を変更、会議に参加しエジプトの復帰が決まるとムバーラクに急接近し、翌年には17年ぶりにエジプトを訪問し国交を回復、後年まで友好関係は続いていた。 にカッザーフィーが骨折して入院した際にはムバーラクが病院へ見舞った。 他の中東・北アフリカ諸国 、イラン皇帝の支配体制打倒を呼びかけ、皇帝と激しい対立関係に陥った。 、が起きると関係を修復し、翌年勃発したでもアラブ諸国の中でも珍しくシリアとともにイランを支持・支援した。 その後の(1984年にカッザーフィーが14年ぶりにモロッコを訪問して和解)やのに対しても敵対発言をしたかと思えば和解を繰り返すなどしている。 国王のともアラブ首脳会議で罵りあって退席したりと対立が続いていたがのちに国王のの仲介で和解している。 、のレバノン侵攻でPLO議長のの動向に世界中の注目が集まる中、「アラファートがいまだ独身なのは彼がだからだ」と突然発言。 この発言はアラファートからは相手にされなかったものの、4月にアラファートの乗った飛行機がリビアのでした際は議長を救助し真っ先に病院に見舞った。 この当時、リビアはの容疑者引き渡し問題で国連制裁を受ける瀬戸際にあった。 アラファートは「私はわが友人、カッザーフィーの側に立たねばならない」とリビアを擁護。 カッザーフィーとアラファートの関係は決して悪いものではなかった。 、が起きた際にはイラクとの和解を目指して提案を行ったが失敗している。 10月にの解決を目指しで開かれたの際には「我々がの尻ぬぐいをする必要はない」とイスラエルとの和平交渉を厳しく批判した。 翌年にも反発しからはリビアから一切のパレスチナ人を追放した。 そしてイスラエルとパレスチナがひとつの国家「」を樹立すべきだと提案したが相手にされず、その後もアラブ首脳会議でを提唱しているがパレスチナの議長からは苦笑いされるだけで終わっている。 、イスラエル首相のが暗殺された際にはを通じ「彼の手は虐殺されたの血で染まっている」と歓迎声明を出した。 、国王のが死去した際、ヨルダン王制の打倒を呼びかけた。 しかしその後、後継のとは関係は悪くなかったようで、リビア革命40年記念式典にもアブドゥッラーは招待されて出席している。 12月、イラクのがされると「彼はになった」としてリビアは3日間喪に服した。 に副大統領だったサッダームとカッザーフィーはで会談している。 ただ、カッザーフィーは1992年に国連制裁を受けた際に同じく制裁を受けていたイラクのサッダーム政権に友好協力を呼び掛ける書簡を送ったことがあるものの、同じアラブの反米指導者とはいえそれほど親しい間柄にあったわけでも無かった(イラン・イラク戦争でリビアがイランを支持したこと、イラクのをリビアが批判したことも原因)。 2009年11月、アフリカ予選試合でエジプトとが険悪な関係となる中で、アラブ連盟のムーサ事務局長がカッザーフィーに仲介を要請、カッザーフィーはこれを受諾した。 欧米 [ ] 旧ソ連 、を初めて友好親善訪問。 軍事的な同盟関係にあるにもかかわらずとの会談でソ連の対外政策を厳しく批判、ソ連指導部の表情を曇らせた。 1980年代には反米姿勢を強めてに参加すると表明してソ連指導部を驚かせた。 フランス にのでのと会談。 フランス大統領との会談はに訪仏して以来11年ぶりだった。 その後にがリビアを訪問するまでフランス大統領とは会談をする機会がなかった。 同年カッザーフィーがフランスを34年ぶりに訪問した際には訪問のために交通をすべてストップし、サルコジとの会談ではサルコジが会談後の記者会見で「大佐に人権改善を要請した」と話したものの、カッザーフィーは「そのような話はなかった」と発言するなど大いに話題をまいた。 フランスの司法当局は、サルコジがを勝ち上がった際にカッザーフィー側から5,000万ユーロに及ぶ違法な資金援助を受けた疑いがあるとして、退任後に汚職などの容疑で訴追した。 アメリカ 、誌が「CIAがアラブ各国とともにいかなる手段を使ってでもカッザーフィー議長を打倒することで合意した」と報道。 この頃からアメリカは強硬派カッザーフィーを警戒していた。 4月にの空爆を受けた際は「のビデオを見ていた」と当時語っている。 なおこの空爆では間一髪で爆撃を逃れたとされる。 のちになって当時の政府が空爆情報を事前にリビア側に伝えていたとされたが、のちにイタリア政府も事前に伝えていたことが明らかになった。 この空爆ではしばらく公の場に姿をみせず、死亡説も流れたが、数日後、国営テレビでアメリカを厳しく非難する演説を行い健在を誇示した。 この演説はアフリカの地図をバックに、の軍服姿で行った。 カッザーフィーは陸軍軍人だがこのときなぜ海軍の軍服姿だったかは不明。 翌、シリア大統領のハーフィズ・アル=アサドと会談した際にアメリカを激しく非難、再び米・リビア関係が緊迫した。 6月、アメリカ合衆国第40代大統領のロナルド・レーガンが死去した際には国営通信を通じ「レーガンが、86年に行ったリビアの子供らに対する醜悪な犯罪について、裁判で釈明せずに死去したことを非常に憂慮する」との声明を出した。 8月31日、クーデターでの政権掌握23周年を記念してテレビ演説し、「アメリカのはの支持する大きな組織だ」としてへの支持を表明。 これまでのリビアの外交政策を転換して欧米諸国との関係改善に意欲を示し注目された。 スイス 12月、カッザーフィーの五男がで容疑で一時拘束される事件が発生。 のちに息子は釈放されたもののカッザーフィーは激怒し、スイスへの石油供給を停止する報復措置をとったうえ、リビア滞在中の2人を拘束した。 スイス政府はリビアとの交渉の末、連邦大統領がリビアを訪問してカッザーフィーに事実上謝罪した。 しかし当初これでビジネスマン2人は解放され大統領とともに帰国するとみられていたが結局解放されず、スイス国内では大統領批判が起きた。 リビアは拘束されたスイス人を裁判にかける動きに出た。 またカッザーフィーは「スイスを分割してしまうよう」国連に提案するなどした。 スイス大統領は9月の国連総会の際にカッザーフィーと会談して早期釈放を働きかけたが、カッザーフィーは「私の息子は侮辱を受けた」と述べ、解放を確約しなかった。 スイス人2人は紆余曲折の末、にようやく解放され、スイス大使館に保護された。 しかしその後、リビアは2人を裁判にかけた(結果は1人は無罪、1人は有罪で禁固4か月の判決)。 これで問題は収束するかと思いきや、今度はスイスが一部のリビア人の入国を禁止する措置をとり、これに反発したリビアがスイス人を含む欧州人(英国人は除く)の入国を禁止すると発表するなど外交報復合戦に発展している。 その後、各国の仲介努力がなされ、リビアはスイス大使館が保護している無罪だった1人の国外退去は認めチュニジアに出国させたが、有罪だったもう1人の身柄引き渡しを求めてスイス大使館を武装警察隊が包囲する事態に発展。 スイスは国際外交法に違反する行為だと非難した。 しかしこのスイス人は自ら禁固刑に服すると表明し、スイス大使館を出たところ、リビア警察に手錠を掛けられ、刑務所に連行されていった。 カッザーフィーは演説でイスラム教のモスクを破壊する異教徒の国だ、としてスイスに対する「聖戦」を呼びかけた。 さらにリビアはスイス製品の輸入を全面禁止するなど報復がエスカレートしている。 このカッザーフィーの聖戦の呼びかけについて2010年2月にアメリカ合衆国のクローリー国務次官補が記者会見で、2009年でのカッザーフィーの国連演説での振る舞いをひきあいに「私の記憶では沢山の言葉と沢山の紙が飛び交ったが余り筋が通っていなかった」などと発言した。 リビア側がこの発言に反発し、公式謝罪がなければトリポリのアメリカ企業に対して何らかの措置に出る可能性があると警告した。 米・リビア間の外交問題に発展しかねない情勢となったため、同次官補は急きょ駐米リビア大使と会談するなど事態の鎮静化に動きだし、「大佐を中傷する意図はなかった。 発言は米国の政策を反映したものではなく、私の発言が二国間関係のさらなる発展を妨げる障害になったことを遺憾に思う」と釈明し事実上謝罪した。 またこれを受けてリビアと米国の関係を話し合うためにフェルトマン国務次官補(中東担当)が2010年3月にリビアを訪問した。 イタリア 6月、イタリアを初訪問。 黒い陸軍軍服姿で空港に降り立ったカッザーフィーは「イタリアが(昨年)我々に謝罪したため、私はここに来た」と語り、胸にはかつてイタリア軍に絞首刑にされた反植民地闘争の英雄の写真をつけていた。 友好訪問でこのようなことを行う首脳は異例であり国際常識では考えられないことである。 訪問中、での講演には2時間近く遅れ、関係者らを激怒させたあげく、下院議長のとも会談予定だったが、予定の時間から2時間たっても現れず、議長は「遅刻の理由の説明もないままだ」と会談をキャンセル、その後に予定されていた国会議員らとの会合も取り止めになるなどわがままぶりを発揮した。 このような遅刻や突然の会談キャンセルはリビア国内でも日常茶飯事である。 女性団体での会合では「アラブでは女性がこれまで家具のように扱われてきた」と述べ、アラブ諸国での女性の地位・権利向上に理解を示した。 トルコ 、リビアを友好訪問したの首相に対しトルコがイスラエルやアメリカと友好関係にあることなどを厳しく非難した。 アジア [ ] 日本 1973年7月のでは、自国のにあるにハイジャック機が降り、現地で犯人グループ(と(PFLP)の混成)は投降、人質を解放した。 このときカッザーフィーは投降した犯人グループが第三国に出国することを黙認していた。 カッザーフィーは、ので使用しているのと同じを日本より輸入し使用していた。 この事実は1986年、の住居を下の機にされ、アメリカ政府の非人道性を訴えるため各国の報道陣に爆撃現場を公開した時に発覚した。 が発生した際には「経済力で悪魔(アメリカ)に奉仕してきた日本人に天罰がくだった」と国営ジャマーヒリーヤ通信を通じて声明を出した。 日本の外務省から「国際常識にもとる発言」だとしてただちに抗議に遭う。 しかし近年ではアフリカ支援の見返りとして石油利権の優先権を与える用意があるとし、更に日本と深い関係にある欧米に対する態度が軟化した事で、今後リビアと日本の関係は進展していくと思われていた。 公式サイトで使用されている、カッザーフィーの背後に世界地図が描かれている画像には日本列島がない(そのほかをはじめ、いくつかの島が省略されてしまっている)。 2009年12月15日、軍縮平和研究所が主催する衛星回線を使った対話集会に参加、講演を行ったあと、大学生らの質問に答えた。 日本について「私はこれまで日本人を困らせたくないので、話すことを避けてきた」「欧米諸国と違い、日本はアフリカ大陸で植民地政策や侵略行為をしなかった」「国連で日本は米国に追随してばかり。 もっと自由な意思を持たないといけない」「広島と長崎に原爆を落とした米国の(軍の)駐留を認めているのは悲しいことだ。 あなたたちの祖父などを殺した国となぜ仲良くなれるのか」「日本はアジアの近隣諸国との友好、信頼関係を重視すべきだ」などと語った。 またオバマ米大統領について、イラク戦争の幕引きに乗り出したことなどを念頭に「(ブッシュ)前大統領の政策を継承する大統領ではない」と指摘しアフガニスタンへの米軍増派についても「総撤退する前に兵力を増強して威力を示すのは軍事戦略上の常識だ」と発言した。 一方中国やインドについては「移民してアフリカの人々を追い出そうとしている」と語ったが「(アフリカの)石油を守ると言って軍隊を送り込む欧米と比べれば(中国は)悪くない」と述べるなど、弁舌は健在だった。 韓国 11月、の仏教人権委員会はカッザーフィーを反独裁、民族解放運動を支援し、民主主義と自由、平等のために戦う闘争家と称え、外部勢力に対抗して、自由と平等、正義という大義を守るために行った先駆者としての役割を高く評価し「仏教人権賞」授与した。 その他の国 [ ] 、国連制裁で飛行が禁止されているにも関わらずクーデター後のを訪問し熱狂的歓迎を受けた。 2009年2月、アフリカ・の地元大衆紙が同国の部族王国のとカッザーフィーが「不倫関係にある」と報道。 怒った駐ウガンダ・リビア大使が裁判所とに起訴した。 委員会は10月、同紙に対し、5万ドル(約450万円)の損害賠償と謝罪文の掲載を命じた。 2010年3月中旬、宗教対立が続くナイジェリア情勢に関連してカッザーフィーはナイジェリアが北部のイスラム、南部のキリスト両教徒を中心とした2国家に分かれればよい、と発言した。 これにナイジェリアが猛反発し、駐リビア大使を召還した。 それにも関らずその後もカッザーフィーは「ナイジェリアは旧ユーゴスラビアのようになるのがふさわしい」と声明を発表した。 国際会議等での発言・パフォーマンス [ ] の際などには必ずといっていいほど自国大使館の庭にを張って野営、そこで首脳会談を行ったりする。 これは自分が()出身であることを強調するためであるとされる。 また若い女性兵士をとして引き連れて行動する。 この女性たちは西側メディアからは「カダフィ・ガールズ」と呼ばれた。 9月、で開かれたに出席。 会場外にテントを張り、を空輸して話題をさらった。 この際、テントの中で日本をはじめ外国メディアとの会見に応じ、当時世界を席捲していたのについて「私は支持している。 しかし我々のほうが先に『』で革命を行っている」と語った。 またレバノンでの欧米人人質は解放されるべきだ、とも語った。 首脳会議での演説では「イスラエルをに移してしまえ」と発言した。 1990年、国際会議で「イスラエルにを打ち込むべきだ」と発言したが、イスラエルは「いつものカッザーフィー発言だ」として相手にしなかった。 2009年11月、において発展途上国の貧困へのアピールとして総長以下、各国国家代表も参加した「」のパフォーマンスを尻目に、500人のイタリア美女を集めたパーティを催し、その健在ぶりを誇示した。 2010年3月にシルトでアラブ連盟首脳会議を開催、開催国としてアラブ各国首脳を出迎えたが、カッザーフィーへの個人的わだかまりなどから加盟22カ国・機構のうち出席した首脳は10か国あまりにとどまった。 前日の外相会議ではイラクの外相がカッザーフィーが以前に旧バース党のメンバーらと会談したことを非難、抗議して退場する一幕もあった。 2010年、開催中、リビア国内での演説で FIFA について「選手の人身売買を行っている国際的なマフィアだ」と批判した。 「貧しい国から選手を金で買い、練習をさせて金持ちの国に売っている」と主張し貧しい小国もワールドカップの開催地となる権利があると強調、「FIFAは人身売買でもうけた金で、貧しい国でのW杯開催を手助けすべきだ」と述べた。 ちなみにリビアはこの年のワールドカップでは予選で敗退し本大会には出場していない。 2011年2月、状態のにて、「のでは、戦車によって人々が蹂躙されて中国の統一が保たれた。 国家の統一のためならどんなこともする 」と述べ、反体制派に対するなどの弾圧を正当化した。 これに対し、は困惑するも「リビアができるだけ早く社会の安定と正常な秩序を回復するよう強く希望する」として、カダフィの発言については批判しなかった。 なお、当時の中国は首都トリポリとカッザーフィーの故郷スルトを結ぶ鉄道の建設などリビアで複数の権益を抱えており 、内戦を受けて軍艦や輸送機などを派遣して中国人労働者3万人をリビアから退避させた。 中国国内ではに影響されたも起きており、中国政府はカッザーフィー政権への武器提供疑惑が取り沙汰されていた。 テロ行為の疑惑と変容 [ ] 、の、がリビア訪問中に行方不明になった。 リビア側は一貫して同師らはに向け出国したと説明してきたが、に入国記録はなく、レバノン司法当局はリビア政権が関与し、殺害した可能性が高いとして、誘拐教唆などの容疑でカッザーフィーらリビア人計8人の逮捕状を取った。 5月、国外に逃れた反体制派リビア人に対しただちに帰国するよう命令を出し、「帰国しない場合は命は保証しない」と恐怖の通告を行った。 その後実際に欧州各地で亡命リビア人が何者かに殺害される事件が相次いだ。 この事件についてナンバー2の少佐は当時「我が国では深遠なる革命が起きているのだ。 革命有志たちが行っていることだ」と語っていた。 には支援をやめると宣言を出す。 「アラブの暴れん坊」から「地中海の紳士」へ変貌か?とも言われたが当時世界からは全く相手にされなかった。 4月、の容疑者引き渡し問題でがリビアに制裁を課した。 この時カッザーフィーは「制裁が発動されればリビア国内のすべてのに火を放つ」などと発言していたが実行はしなかった。 また過去に何度か「もうアラブ連盟を脱退する」などの発言を行ってきたが実行に移した事はなかった。 人物像 [ ] 容貌 [ ] アラブの指導者のなかではめずらしく、長い間をたくわえない人物であったが、2000年あたりから口やあごに無精ひげを生やし始めていた。 髪は長髪に伸ばし、軍帽の脇から髪が振り出している肖像が公開されている。 派手な衣装 [ ] 1970から80年代までは姿や質素な姿が多かったカッザーフィーだが、1990年あたりからさまざまなや独特の服装を好んで着るようになっていた。 あるときは白や黒の陸軍制服姿だったり、に野戦戦闘服姿だったり、アフリカの過去の著名な指導者の姿がプリントされただったりした。 の場合は純白のものを好んで着ることが多く、ネクタイは殆どしなかった。 民族衣装は、、、、などさまざまな色彩のものを着て登場した。 またを着用していることが多かった。 私生活 [ ] カッザーフィーは「指導者が豊かさを享受するのは国民の後でよい」という理由から住居は兵舎を使用していると公言していた。 しかしこれはあくまで公においてのことであり、実際は暗殺を回避するため、1970年代から、「バアブ・アル=アズィースィーヤ」と呼ばれる対空機関砲を備えた重装備の要塞のような場所に居住・執務していたとされる。 1986年4月にアメリカ軍に空爆された際は、この「バアブ・アル=アズィーズィーヤ」から掘られた地下トンネルで脱出したことが1990年に明らかになっている。 また車で国内移動の際も豪華なベンツ等に自身が乗っていると装いつつ、後続の護衛車に乗っている場合が多かった。 これも暗殺を防ぐためだったと考えられる。 また海外での国際会議に出席する際には、現地のホテルなどを使用せず、軍事用テントを設営して宿泊していた。 また複数の豪邸、専用ヨットなど贅沢三昧な私生活を送っていた事は国民の間にも知られていた。 アメリカに敵対しながらアメリカの有名な女性歌手を借り切った豪華客船に招き家族で私的なコンサートを楽しむなど独裁者として日々の饗宴を満喫していたが、この女性歌手は後に出演料を返却した。 、のにより破壊された首都の自宅を世界のに向け自ら公開、その際に、日本ので使用されるような「」の愛用が明らかになり、国際社会の失笑を買った。 また公的な資金もカッザーフィーの思うがままに使用された。 サッカー好きの息子()を自ら所有するクラブ ()の選手とし、さらに選手に仕立て上げただけでなく、イタリアの名門サッカークラブの株を国営公社に買い取らせ、役員に就任させている。 そのほかにもに多額の資金援助を行い、等の有名クラブに所属させたが、明らかに力量不足であり、通算2試合だけしか出場できなかった。 世界有数の強豪であるを、これまた高額なギャラでリビアに招き親善試合をしたことも有る。 反乱軍によるリビア制圧後には、豪奢な邸宅と完全カスタムされたEV等の高価な私財が発見された。 そのほか海外に天文学的な金額の隠し財産があることも判明し、如何にして現在のリビア政府に戻すべきか検討もされている。 になって、カッザーフィー政権時代のリビアが、(地)を隠れ蓑にする形で、核兵器開発に向けての取引を実施していたことが明らかになった。 高所恐怖症 [ ] 告発サイトであるは、カッザーフィーはの2階より上階には滞在できないこと、長時間のによる移動や海上の飛行を嫌うなど、である可能性を指摘した。 家族 [ ] 7男1女で、長男の ()は、カッザーフィーと第一夫人との間の子(ちなみに次男以降は全員第二夫人との間の子 )で、委員長であった。 次男の () は、1972年生まれで、2011年までカッザーフィー開発基金(旧:国際慈善基金)総裁を務め、4月には視察のために来日している。 その際に日本ののインタビューを受けたことがある。 また、愛知万博においてリビアをフレンドシップ国として交流していたも訪れ、の絵を寄贈している。 2006年には国際慈善基金総裁としてフィリピンのイスラム武装組織に誘拐された人質の解放に一役買った。 2009年にパンナム機爆破事件のメグラヒ懲役囚が末期がんを理由にの拘置所から釈放された問題では釈放に向け積極的に動き、メグラヒと一緒に飛行機に乗りトリポリの空港に降り立った。 近年 [ ]、父親の政治を批判したり、国内の民主化が必要だとする発言を行うなどして注目された。 2009年10月6日に父カッザーフィーが「サイフ・アル=イスラームには、彼に役割を果たさせる地位が必要だ」と発言し、急きょ設けられた「人民社会指導部総合調整官」という職に就任した。 後継者としての立場を強めたのではないかとも言われた。 「人民社会指導部」は全人民会議、全人民委員会に助言を行う機関とされるが実態は不明。 2010年6月、ロシアの首都モスクワで自身の描いた絵画の個展を開き、注目された。 2011年2月の反政府デモに対してはテレビで武力弾圧を肯定する演説をおこなった。 8月22日までに三男サーアディーと共に反カッザーフィー勢力に身柄を拘束されたと報道されたが、その日の夜に報道陣前に無事な姿を見せ抵抗継続を訴えている。 その後行方がわからなくなったが、11月19日にリビア南部で身柄を拘束された。 その後裁判にかけられ、2015年には銃殺刑が言い渡されたが、2017年6月に恩赦により釈放。 2018年12月に予定されていた大統領選挙への出馬を表明した ものの選挙は延期され続けており、2020年2月現在も実施されていない。 三男のは、元プロサッカー選手。 リビアの旧でもあるのクラブ、に入団したことは大きな話題となった。 2002年日韓ワールドカップを見に日本に入国したことがあるが、成田空港で彼のボディガードが拳銃を所持していたために足止めをくらったことがある。 彼はリビア軍の司令官の娘と結婚、選手引退後はリビアサッカー協会会長を務めていた。 1996年にトリポリでサッカーの試合中に観客が暴動をおこし、通りに繰り出して「反カッザーフィー」を叫んだ事件では、サッカーの審判団がアッ=サーディーがオーナーを務めるサッカークラブに有利な判定を連発したことが原因とされている。 四男のは、海運会社を経営するビジネスマンだが 、欧州での豪遊で知られ、パリでスピード違反事件を起こしてしまったり、スイスで婦女暴行事件を起こしたとして拘束されてしまったり(結局無罪放免となった)、数々のトラブルを起こしている。 2009年12月22日にはスイスでの暴行事件を報じた際に自分の顔写真を掲載したとしてスイスの新聞「トリビューン・ド・ジュネーブ」に名誉棄損での損害賠償を求める訴えを起こした。 また同25日にはイギリスの高級ホテルにボディーガードらと宿泊していたが部屋から女性の悲鳴が聞こえたためにホテル側が警察に通報し、警察が到着するとハーンニーバールの妻(元モデル)が顔から血だらけになっていたなどの騒ぎを起こしている。 なお、妻はの際にへ亡命を図ろうとしたものの、拒否されている。 五男の は、リビア陸軍少尉で、過去、父親に反乱を企てたこともある。 が、のちに父親はそれを許し、2009年には「国家安全保障顧問」という地位にあった。 2009年、リビアと米国の今後の関係についてと会談を行い父親の有力後継者として注目された。 2011年10月20日、父親と共に死亡した。 六男は ()。 ドイツに留学経験のある学生とされるが、2011年4月30日夜、NATO軍の空爆で29歳で死亡したとリビア政府から発表された。 政権運営にはほとんど関わっていなかったとされている。 七男の ()はトリポリの軍学校で軍事学と科学の学士位を取得後、モスクワに留学しフルンゼ軍事学院()とロシア連邦軍士官学校()を卒業。 2010年にはマドリードので修士位を取得した。 ではで最も重要とされる第32特殊連隊(通称ハミース旅団)のに就任した。 8月29日に死亡したとの発表が10月にあった。 長女の ()は、で、元の弁護団に加わると報道され(実際にはイラクに入国できず)、注目を浴びた。 アーイシャは2006年に父親カッザーフィーのいとこと結婚した。 2009年7月に、国連開発計画(UNDP)の親善大使に任命されていたが、2011年の内戦でリビア政府による市民への武力行使に対する措置としてその役を解任された。 また内戦を避けへ亡命を図ろうとしたものの、拒否されている。 特定の部隊を率いているわけでは無いが、リビア軍将校の肩書があり、階級はである。 養女のハナは、1986年のアメリカ軍のリビア爆撃で死亡したとされ、2006年には爆撃20周年・ハナ死亡20年の追悼行事が開催されたが、によるトリポリ陥落後、実は生存しており、医師としてトリポリの病院に勤務していたとの報道もなされた(ハナ死亡後に養女とした別の少女に再びハナと名付けたという説もある)。 甥のムハンマド・ムフタール・ラシュタルは、2007年より大統領のの個人秘書や外交顧問を務めていた。 関連文献 [ ]• 『リビアの革命児カダフィ』ホーチキ商事出版部 1973. 最首公司『カダフィとアラブ民族主義』ホーチキ商事出版部 1975. 『リビアがわかる本 激動の国リビアと中東の暴れん坊カダフィのすべて』ダイナミックセラーズ 1986• 『カダフィ正伝』集英社 1990• 編著『アラブ民衆革命を考える』国書刊行会 2011 脚注 [ ] []• 生まれ説もある。 かつては9月生まれ説もあった。 公式サイト(参照)より。 時事通信• の『ニホン語日記』によれば1969年の革命でにわかに政権指導者になったとき、欧米メディアの「カダフィ」のローマ字表記は7つから8つあったという。 冠詞の "al" をつけるか否かやイニシャルだけで G, Q, K などが使用される(()ではの q の文字は g, k, kh と3通りに発音される可能性がある)ためで、実際に日本以外の主要メディアにおける表記は40種前後もあり、さらに個人名ムアンマルの表記のヴァリエーションも含めれば更に総数は増える。 詳しくは本項目英語版該当記事()参照。 参考リンク:• 2011年(平成23年)3月8日第75号「国際連合安全保障理事会決議に基づく資産凍結等の措置の対象となるリビアのカダフィ革命指導者及びその関係者を指定する件」• もっとも、小国や軍の規模の小さい国(欧州の公国、アフリカ諸国など)では、軍の常設の最高位が大佐である場合もある。 これは近代以前の軍隊ではが平時の編成上の最大単位であり、連隊長を務める大佐が実質的に軍の最高位であったことも関係している。 英語版 の該当項目も参照のこと。 大佐昇進以前のカッザーフィーの階級を(: )と解説する例もあるが、これは誤りである。 またアブー=バクル・ユーニス・ジャーベルも(: )と誤記されることがある。 参考リンク:• 読売新聞. 2009年7月10日. の2007年10月26日時点におけるアーカイブ。 2009年9月の朝日新聞「特派員コラム」• Soumiea Abushagur 2011. The Art of Uprising: The Libyan Revolution in Graffiti. Lulu. com. Christopher H. Dalton; Richard A. Lobban Jr. 2014. Libya: History and Revolution illustrated ed. ABC-CLIO. 129. 日本国外務省ホームページの表記による。 2004年以前は「社会主義人民リビア・アラブ国」という表記を採用していた。 The Risk Report Volume 1 Number 10 December 1995 Page 1, 3-4. "Libya Has Trouble Building the Most Deadly Weapons". The Risk Report Volume 1 Number 10 December 1995 Page 1, 3-4. Wisconsin Project reports. 2004年2月15日. 2019年6月27日閲覧。 2008年11月01日• 産経新聞. 2008年11月18日• 毎日新聞. 2009年7月10日. の2009年7月15日時点におけるアーカイブ。 2009年7月10日閲覧。 日テレNEWS24. 2009年9月2日. 2010年1月10日閲覧。 ロイター. 2009年9月2日. 2010年1月10日閲覧。 2009年9月24日. の2009年9月26日時点におけるアーカイブ。 2009年9月24日閲覧。 2011年9月25日. の2012年1月17日時点におけるアーカイブ。 2011年9月25日閲覧。 時事通信. 2011年6月27日 2011年6月29日閲覧。 (2011年9月9日)2015年5月23日閲覧。 (2011年9月9日)2015年5月23日閲覧。 時事通信• 2011年10月20日. 2019年7月3日閲覧。 2011年10月21日. 2019年7月3日閲覧。 産経新聞 2011年10月21日閲覧• 毎日新聞、2011年10月21日• 日本経済新聞夕刊3版: p. 2011年10月21日• 中日新聞夕刊D版: p. 2011年10月21日• ロイター通信• 国連、カダフィ大佐の死因解明を要請 CNN• カダフィ大佐死亡:移送途中に銃殺の可能性強まる 毎日新聞• 47news• 日本経済新聞 2011年10月22日閲覧• 時事通信• 毎日新聞• Harris, Lillian Craig 1986. Libya: Qadhafi's Revolution and the Modern State. Boulder, Colorado: Westview Press. , pp. 98—99• Kawczynski, Daniel 2011. Seeking Gaddafi: Libya, the West and the Arab Spring. Biteback. , p. 115• Bruce St. John, Ronald 2012. Libya: From Colony to Revolution revised edition. Oxford: Oneworld. , pp. 210—211. 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ジョージ・クルーニー

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Contents• アマルクルーニーって? ズバ抜けた美貌と洗練された印象で注目のアマル・クルーニー。 人気俳優ジョージ・クルーニーの妻です。 その美しい容姿と高いファッションセンスはハリウッド女優顔負けです。 彼女自身も女優?モデル?と思われがちですが、名門オックスフォード大学で法律を学び、国際弁護士としてバリバリとロンドンで働くキャリアウーマンです。 2017年に双子のお子さんを出産されてからも仕事は続けられていて、弁護士としてだけではなくコロンビア大学での客員教授として人権を教えたりもしています。 また人権弁護士のアマルは、国連に性暴力に対する法整備などを訴えています。 また慈善活動も盛んな夫妻は、2016年に「The Clooney Foundation for Justice(正義のためのクルーニー基金)」を設立し、ユニセフと提携したりシリア難民の子供たちに教育を受けさせるための資金提供などを行っています。 そんな知的で容姿端麗なアマルクルーニーのファッションをチェックします。 ワンピース 無地のワンピース 単体でもOK、ジャケットやコートなどのアウターとも合わせやすい無地のワンピースは重宝します。 教授としてのお仕事もあるので、シンプルな単色のワンピースはぴったりです。 赤やグリーンの原色のワンピースも素敵ですし、清楚なホワイト系、定番のブラックとどんなカラーもお似合いでうらやましいです。 ドレスブランド:Proenza Schouler ドレスブランド:ヴェルサーチ ドレスブランド:ドルチェ&ガッバーナ ドレスブランド:ステラマッカートニー ドレスブランド:Camillo Bona ドレスブランド:グッチ プリントワンピース 花柄やストライプなどのプリントドレスは、プライベートやテレビ出演などのイベントなど、お仕事とは異なるシーンで着用されていることが多いです。 より個性的に華やかな印象になります。 ストライプはお仕事にも使えますし、花柄は普段着としても使えそうです。 ドレスブランド:ジョルジオアルマーニ ドレスブランド:マイケルコース ドレスブランド:オスカーデラレンタ ドラスブランド:アレキサンダーマックイーン その他のワンピース カラーブロックやカラフルなものなど個性的なワンピースは、ショッピングやデートなどプライベートでのご着用がほとんどです。 ドレスブランド:グッチ ドレスブランド:ヴァレンティノ ドレスブランド:ドルチェ&ガッバーナ ドレスブランド:ミッソーニ パーティードレス ご主人がジョージクルーニーということもあり、ゴールデングローブ賞などのレッドカーペットに参加されることも多いアマル。 またヘンリー王子とメーガン妃のご結婚式に出席されたり、ご自身のビジネス関連やチャリティーなどのパーティーなど、パーティードレスはたくさんお持ちになっています。 ドレスブランド:ジャンバティスタ・ヴァリ ドレスブランド:クリスチャンディオール ドレスブランド:ローランムレ ドレスブランド:ジャンバティスタ・ヴァリ ドレスブランド:ステラマッカートニー ドレスブランド:プラダ スーツ&セパレート スーツ 弁護士というお仕事柄スーツでビシッときめるととても素敵です。 今スーツを一番キレイに着こなせる有名人はアマルではないでしょうか。 ツイード素材など素材にこだわったり、可愛らしい模様だったりと、固い印象になりがちなスーツもうまく着こなされています。 スーツブランド:シャネル スーツブランド:オスカーデラレンタ スーツブランド:ボッテガヴェネタ セパレート ブラウス+スカート、ニット+スカートなど、お仕事にもぴったりな女性らしい組み合わせも素敵です。 スカートはタイトで丈はひざ下が定番。 上品で知的な印象は絶対的です。 トップス&スカート:グッチ トップス&スカート:ドルチェ&ガッバーナ トップス&スカート:ドルチェ&ガッバーナ ブランド:オスカーデラレンタ パンツスタイル キャリアウーマンにとって知的なパンツスタイルは必須ファッションです。 プライベートでもデニムなどをよく履かれていて、長いスラリとした脚が目立ちます。 スーツブランド:ドルチェ&ガッバーナ ジャンプスーツブランド:ステラマッカートニー コート キャサリン妃と同じく、コートのアレンジがとても上手です。 原色のコートや合わせるのが難しそうなデザインのものもとても素敵に着こなされています。 ビジネススタイルのアウターコーデのお手本となります。 コートブランド:Ermanno Scervino コートブランド:ボッテガヴェネタ コートブランド:マイケルコース 30代以上の女性のお手本 働く女性ではなくても、アマルの洗練されたファッションは大人の女性にとってとても参考になります。 品のあるファッションをお手本にしてワンランク上の女性になりましょう。

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