シッタカ ブッタ。 ブッダの教えとは? わかりやすい「まとめ」ブッダの教え「図解」|えん坊&ぼーさん マンガで楽しい原始仏典・ブッダの教え・仏教

学生相談室コラム Vol.4

シッタカ ブッタ

サンスクリット語のブッダBuddhaの音写。 仏 ぶつ 、「ほとけ」ともいう。 Buddhaはbudh(目覚める)を語源とし、「目覚めた人」「覚者」、すなわち「真理、本質、実相を悟った人」を表し、もとは普通名詞であり、仏教と同時代のジャイナ教でも用いた。 ゴータマ・シッダールタはその一人で、のちゴータマ・ブッダとなり、それが仏教を創始した釈迦 しゃか にほかならない。 中国では浮図 ふと などと音写し、それが日本に「ふと」として伝わり、これに「け」を加えて、やがて「ほとけ」となった。 なお仏は仏陀の略ではなく、伝来の過程でBuddhaがBudとなったものと推定される。 唐以降は仏陀の音写が広まる。 [三枝充悳] 出典 小学館 日本大百科全書 ニッポニカ 日本大百科全書 ニッポニカ について の解説 …釈尊自身は,いよいよ深い禅定を体得していって過去・未来・現在にわたる自我的存在を放捨しきったところで,いまここに〈〉して自由になるとか〈〉に入るとかと説かれた。 仏弟子たちの教団は,釈尊を〈仏陀 目覚めた人 〉とよんだり,釈尊の悟りを〈 目覚め 〉とよぶようになり,また他方で釈尊の教えをまとめた〈四諦〉の真理を〈現観〉して〈無漏解脱〉を得るとか,〈 十二支 縁起〉の真理を〈観〉じて〈正等覚〉するとか,などと説くようになった。 大乗仏教においては仏や菩薩を賛嘆しつづけて三昧に入り,諸仏にまみえて〈不退転〉になるとか〈無生法忍〉を得るとか,さらには輪廻的存在の根拠が消滅し新しく涅槃的存在の根拠が〈転依〉するなどとも説かれた。

次の

[mixi]愛のシッタカブッダ

シッタカ ブッタ

原語と音写語 [ ] 原語 [ ] : Buddha(ブッダ)は、の「知る」「目覚める」を意味する動詞ブドゥ budh の過去分詞形で 、「目覚めた者」 や「真理、本質、実相を悟った人」 、「覚者」・「智者」と訳す。 「正覚者」のことであり、聖人・賢者をブッダと呼ぶようになった。 buddhaの語はでは、もとはを通じて使われたものであり、の開祖もこの名で呼ばれたことがある。 音写語 [ ] ブッダの名称は、に伝えられた当初、その音を写して 音写して 「浮屠 ふと 」「浮図 ふと 」などの漢字が当てられた。 またのちに、ブッダが別に仏陀 佛陀 と音写されることが増え、 602~664年 以降に固定する。 より古い時代に、末尾のの脱落などがあり「ブト」と省略され、それに「仏 佛 」の音写が当てられた との考え方もある。 は、「佛」の字を「人であって人でない 人を超えている 」と解した。 仏陀の範囲 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2017年9月) 基本的にはを開いた ただ一人を仏陀とする。 初期の経典でもやや、弥勒菩薩が未来に成仏することなど過去や未来の仏陀の存在を説いたものもあるが、現在の仏陀は一人だけであるとされた。 またの文献にはを「ブッダ」と呼んだ形跡があるが、仏教ではマハーヴィーラを仏陀とは認めていない。 しかして時代を経ると、という見方が展開し、釈迦以外にも数多くの仏陀が同時に他の世界で存在している事を説く仏典が現れた。 例を挙げると、初期経典では「根本説一切有部毘奈耶薬事」など、大乗仏典では『』や『』などである。 多くの仏教の宗派では、「ブッダ(仏陀)」は釈迦だけを指す場合が多く、を得た人物を意味する場合はなど別の呼び名が使われる。 を得た人物を「ブッダ」と呼ぶ場合があるが、これはを含む沙門宗教に由来するもので、の伝統としてあるわけではない。 仏陀への信仰 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2017年9月) 釈迦は自分の教説のなかで輪廻を超越する(主宰神、絶対神)の存在を認めなかった。 その一方、経典のなかでは、従来は超越的な「神」( deva, )としてインド民衆に崇拝されてきた存在が仏陀の教えに帰依する守護神として描かれている。 その傾向は時代を経ると加速され、ヴェーダの宗教で「神」と呼ばれる多くの神々がとして仏教神話の体系に組み込まれていった。 また仏滅500年前後にが興隆すると、人々は超越的な神に似た観念を仏陀に投影するようにもなった。 なお、釈迦がした当時の社会では、が主流で、バラモン教では祭祀を中心とし神像を造らなかったとされる。 当時のインドでは仏教以外にもなどの諸教もあったが、どれも尊像を造って祀るという習慣はなかった。 したがって原始仏教もこの社会的背景の影響下にあった。 そのため当初はなどでは、で仏の存在を示していた。 しかし、死後300年頃より彫像が作られはじめ、現在は歴史上もっとも多くの彫像をもつ実在の人物となっている。 とはいえ、死後300年を過ぎてから作られはじめたため実際の姿ではない。 仏陀の顔も身体つきも国や時代によって異なる。 十号 [ ] 詳細は「」を参照 仏典では仏陀をさまざまな表現で呼んでおり、これをという。 真如より来現した人。 (おうぐ、: arhat) - 阿羅訶、阿羅漢と音写されている。 煩悩の尽きた者。 善逝(ぜんぜい、: sugata) - によって迷妄を断じ世間を出た者。 世間解(せけんげ、: lokavid) - 世間・出世間における因果の理を解了する者。 無上士(むじょうし、: anuttara) - 悟りの最高位である仏陀の悟りを開いた事から悟りに上が無いと言う意味。 (ぶつ、: buddha) - 煩悩を滅し、無明を断尽し、自ら悟り、他者を悟らせる者。 (せそん、: bhagavat) - 福徳あるひと。 菩薩の五十二位 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2017年9月) 仏陀の悟りの位については、が仏となる修行過程として52の位が存在するともされている ことが理解の助けとなる。 (下位から1段目~10段目の悟り)• (下位から11段目~20段目の悟り)• (下位から21段目~30段目の悟り)• (下位から31段目~40段目の悟り)• (下位から41段目~50段目の悟り) - 41段目の初地の悟りを開いた人は、油断しても悟りの位が退転しない事から、特に「初歓喜地」と言われる。 (下位から51段目の悟り) - 仏の悟りの位に等しい事から等覚と言われる• (下位から52段目の悟り) - 仏、仏陀、正覚 日本語の「ほとけ」 [ ] ブッダが漢字に音写された「浮屠 ふと 」、「浮図 ふと 」が日本に伝えられる過程で、「ふと」という読みに「け」を付し、「ふ」は「ほ」に近づいて、「ほとけ」の語が生まれた。 では「ほとけ」は、またはそのをも意味する。 ほとけが死者の意味で使われるようになったのは、の以降、死者をまつる器として 瓫(ほとき)が用いられて、それが死者を呼ぶようになったという説もある。 しかし、日本では人間そのものが神であり(人神 = ひとがみ)、が伝来した当初は仏も神の一種と見なされたこと( = となりぐにのかみ)から推察して、人間そのものを仏と見立てて、ひいては先祖ないし死者をブッダの意味で「ほとけ」と呼んだとも考えられている。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 朝日新聞社. 2017年9月26日閲覧。 , p. 『』及び『』• 『広辞苑』岩波書店、1986年10月、第三版、2215頁。 743. 参考文献 [ ]• 他『岩波仏教辞典』岩波書店 ,1989年。 、『バウッダ』講談社学術文庫、2009年。 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ] で 「 仏陀」に関する情報が検索できます。 ウィクショナリーの ウィキブックスの ウィキクォートの ウィキソースの コモンズで()•

次の

仏陀

シッタカ ブッタ

壮大な岩が風にまったく揺るがないように賢者は、非難と称賛に動じない。 人は「私はこういう人間だ」と自分で考えるその通りのものになります。 それと異なったものになることはない。 戦いにおいて、一人が千人に打ち勝つこともある。 しかし、自己に打ち勝つ者こそ、最も偉大な勝利者である。 愚かな人は、「私には息子がいる」「私には財産がある」などといってそれで思い悩むが、自分自身がそもそも自分のものではない。 ましてや、息子が自分のものであろうか。 財産が自分のものであろうか たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。 以前には怠りなまけていた人でも、のちに怠りなまけることが無いなら、その人はこの世の中を照らす。 あたかも雲を離れた月のように 為すべきことであるならば、それを為すべきである。 それを断乎として実行せよ。 「一切の形成されたものは苦しみである」と明らかな智慧をもって見るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。 これこそ人が清らかになる道である。 今日すべきことは明日に延ばさず確かにしていくことこそよい一日を生きる道である。 苦悩を乗り越えるための聖なる道は8つの部分からできている。 すなわち、正しいものの見方、正しい決意、正しい言葉、正しい行為、正しい生活、正しい努力、正しい思念、正しい瞑想である。 目的が達成されるまで、人は努めなければならぬ。 自分の立てた目的がそのとおりに実現されるのを見よ。 「因果関係によってつくりだされたすべてのものは無常である(諸行無常である)」と、智慧によって見るとき、人は苦しみを厭い離れる。 これが人が清らかになるための道である。 過去は追ってはならない、未来は待ってはならない。 ただ現在の一瞬だけを、強く生きねばならない。 聖典の言葉をいくらたくさん語っていても、それを実践しなければ怠け者である。 それは例えば、牛飼いが他人の牛を勘定しているようなものだ。 そういう者は修行者とはいえない。 愚かな人は常に名誉と利益とに苦しむ。 上席を得たい、権利を得たい、利益を得たいと、常にこの欲のために苦しむ。 旅に出て、もしも自分よりすぐれた者か、または自分にひとしい者にであわなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。 愚かな者を道連れにしてはならぬ。 最大の名誉は決して倒れない事ではない。 倒れるたびに起き上がる事である。 頭髪が白くなったからとて、尊敬できる長老ではない。 ただのむなしい老いぼれである。 真理あり、他者の害にならず、自ら清め、慈しみあって、そうしてはじめて、彼は心の垢を取り除いた賢者となり、年長者として尊敬される 思いわずらうな。 なるようにしかならんから、今をせつに生きよ。 正しい教えを知らないで百年生きるよりも、正しい教えを聞いて一日生きる方がはるかにすぐれている。 沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、少し語る者も非難される。 つまり、世に非難されない者はいない。 貪りと怒りと愚かさを捨て、諸々のしがらみを断ち、命が尽きるのを恐れず、犀(サイ)の角のように、ただひとり歩め もし、清らかな心で生きている人がいたとしたら幸福はその人の後についていく。 他の人たちが「安楽だ」と言うものを、聖者たちは「苦しみである」と言う。 他の人たちが「苦しみだ」と言うものを、聖者たちは「安楽である」と言う。 法は知りがたいものであると見よ。 無知なる者たちは、ここで迷うのである 思慮のある人は、奮い立ち、努めはげみ自制・克己によって、激流も押し流す事が出来ない島を作れ。 女に溺れ、酒にひたり、賭博に耽り、得るにしたがって、得たものを、その度に失う人がいる。 これは破滅の門である 善をなすのを急ぎなさい。 善をなすのにのろのろしていたら、心は悪を楽しむようになる。 母、または父が老いて朽ち衰えていくのを養わないで、自らは豊かに暮らす人、これは破滅の道である 水が一滴ずつでも滴り落ちるならば、水瓶でも満たすことが出来る。 学ぶことの少ない人は牛のように老いる。 彼の肉は増えるが彼の知恵は増えない。 他人の過失を見る必要はありません。 他人のした事としなかった事を見るのではなく、自分がした事としなかった事だけを見るようにせよ。 多く説くからとて、その故に彼が賢者なのではない。 こころおだやかに、怨むことなく、怖れることのない人、かれこそ賢者と呼ばれる 自分で自分を、励ましなさい。 まず、自分を正しく整えてから他人に指摘せよ。 そして、他人に指摘したことは、自分も実行せよ。 生き物を自ら害すべからず。 また他人をして殺さしめてはいけない。 また、他の人々が殺害するのを容認してはならない 「わたしは愚かである」と認められる者こそ、賢者である。 逆に「自分は賢者である」と思っている者こそ、愚者と呼ぶにふさわしい。 自分よりも愛しいものはない。 同様に他の人々にも、自己は愛しい。 故に自己を愛するものは、他人を害してはならない 生まれを問うな、行為を問え。

次の