籠城 類語。 「蟄居」とは謹慎のこと?意味、使い方、類語を紹介!隠居との違いも紹介!

「蟄居」とは謹慎のこと?意味、使い方、類語を紹介!隠居との違いも紹介!

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与次郎のごときにいたると その最たるものだ。 あの君の知ってる里見という女があるでしょう。 あれも一種の露悪家で、それから野々宮の妹ね、あれはまた、あれなりに露悪家だから面白い。 ー夏目漱石『三四郎』ー 【最たるものが指すもの】• 複数のもの=露悪家• 程度が甚だしいもの=与次郎 上の引用は夏目漱石による『三四郎』の一節です。 読んだことがある人も多い作品でしょう。 大学進学を機に、九州の田舎から上京してきた三四郎の、都会で出会うさまざまな人々との交流を描いた小説です。 これは、三四郎が相談相手として頼りにしている広田という高校教師のセリフです。 「露悪家(ろあくか)」という即席で作った言葉で、身の回りの人たちを評しています。 露悪家とは、自分の欠点をわざわざさらけ出す人のこと。 自分を良く見せようとする偽善家に対する言葉として用いられています。 与次郎は授業をさぼる、借金の返済分で馬券を買ってスッてしまうなど、ちょっとだらしない人として描かれています。 信玄に威服していた連中は、後嗣の勝頼頼むに足らずとして、家康に欵(かん)を通ずるものが多い。 その 最たるものは、 作手(つくりて)城主奥平貞昌父子だった。 ー菊池寛『長篠合戦』ー 【最たるものが指すもの】• 複数のもの=武田陣営から徳川陣営に寝返った者• 程度が甚だしいもの=奥平父子 こちらは菊池寛による『長篠合戦』からの引用です。 甲斐の武田信玄の死後、後を継いだ勝頼から離反して敵対する徳川家康と親交を結ぶものが多く出ている状態でした。 家康は奥平定能(さだよし)、貞昌(おくださだまさ・のちの信昌)を引き入れようと、織田信長の助言に従い、長女を貞昌に嫁がせるなどして寝返らせることに成功します。 相次ぐ諸侯の徳川帰順に憤った勝頼は、長篠で戦を交えることを決意しました。 長篠城を任された貞昌は籠城によって武田軍の攻撃を凌ぎきり、功をあげたのです。

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秀吉の鳥取城攻めでは餓死者が続出!戦国時代の残酷な「城攻め」あれこれ

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「蟄居」と「隠居」「幽閉」「閉門」の違い 「蟄居」とよく似た意味の言葉に「隠居」「幽閉」「閉門」があります。 主に、江戸時代での謹慎させる刑罰となっています。 それぞれどんな違いがあるのか、まずそれぞれの意味を比較してみましょう。 「蟄居」 「武士や公卿に科した刑で、閉門を命じた上に一室に謹慎させること」 「隠居」 「公家または士分の者に科した刑で、不行跡や取り締まり不十分などを理由に地位を退かせ、得た給与を子孫に譲らせること」 「閉門」 「武士・僧侶・社人らに科した監禁刑で、50〜100日間外から門と窓を閉ざし一切の出入りを許されなかったこと」 「幽閉」 「人を一室や獄、塔、洞穴に押し籠め他人との交際を経たせること、拘禁すること」 このようになります。 「幽閉」は刑罰の名前ではなく、閉じ込める方法のひとつです。 「蟄居」「隠居」「閉門」はそれぞれの身分に科された刑罰です。 ちなみに、「閉門」より「蟄居」のほうが重い刑罰となります。 また2つ合わせて 「閉門蟄居」または「蟄居閉門」と四字熟語で表すこともあったようです。 また、 「隠居」には刑罰以外にも 「世の中の煩わしさを避けて、山野など閑静な所に引きこもって暮らすこと、またその人」「表舞台を去ること」などといった意味もあります。 主に官職や家業などから離れる人に対して使われることが多く、「社長の座を譲り隠居する」などと用います。 またそのように「隠居」した人のことを「御隠居さん」などと呼びます。

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「籠もる」の意味は?使い方・類語を解説 | 言葉手帳

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原城包囲の図 乱の発生を知った幕府は、上使としてであった、副使としてを派遣した。 重昌に率いられた九州諸藩による討伐軍は原城を包囲して再三攻め寄せ、12月10日、20日に総攻撃を行うがことごとく敗走させられた。 城の守りは堅く、一揆軍は団結して戦意が高かったが、討伐軍は諸藩の寄せ集めで、さらに上使であった板倉重昌は大名としては禄が小さく 、大大名の多い九州の諸侯はこれに従わなかったため、軍としての統率がとれておらず、戦意も低かったため攻撃が成功しなかったと考えられる。 事態を重く見た幕府では、2人目の討伐上使として・ 、副将格としてらの派遣を決定した。 功を奪われることを恐れ、焦った板倉重昌は寛永15年(1638年)に信綱到着前に乱を平定しようと再度総攻撃を行うが策もない強引な突撃であり、連携不足もあって都合4,000人ともいわれる損害を出し、総大将の重昌は鉄砲の直撃を受けて戦死し、攻撃は失敗に終わった。 この報せに接した幕府は()、増援としてとに出陣を命じる。 新たに着陣した松平信綱率いる、九州諸侯の増援を得て12万以上の軍勢に膨れ上がった討伐軍は、陸と海から原城を完全包囲した。 ・は、20余騎を諸方に派遣して一揆の動きを詳細に調べさせ、らの一隊が原城内に潜入して兵糧が残り少ないことを確認した。 これを受けて信綱はに作戦を切り替えたという。 1月6日、の依頼を受けたオランダ商館長クーケバッケルは、船砲五門(ゴーテリング砲)を陸揚げして幕府軍に提供し 、さらにデ・ライプ号を島原に派遣し、海から城内にを行った。 しかし砲撃の目立った効果も見られず、またら諸将から外国人の助けを受けることへの批判が高まったため、信綱は砲撃を中止させた。 しかし信綱は、ポルトガルからの援軍を期待している一揆軍に心理的に大きな衝撃を与えることこそが狙いで、日本の恥との批判は的外れであると反論している。 実際この砲撃による破壊効果は少なかったが一揆軍の士気を削ぐ効果はあったと考えられている。 このオランダ()の援助について、当時オランダとポルトガルは、 オランダ・ポルトガル戦争 ()(1603〜1663)を戦っており、日本との貿易を独占して敵国ポルトガルを排除しようとするオランダの思惑もあったとされる。 また、中世研究家のは一揆勢力がポルトガル(カトリック国)と結びつき、幕府側はオランダ(プロテスタント国)と結びついた。 このあとのでのポルトガル排除はオランダとの軍事同盟の結果と考察している。 討伐軍は密かに使者や矢文を原城内に送り、キリシタンでなく強制的に一揆に参加させられた者は助命する旨を伝えて一揆軍に投降を呼びかけたが、成功しなかった。 更に、生け捕りにしたの母と姉妹に投降勧告の手紙を書かせて城中に送ったが、一揆軍はこれを拒否している。 一揆軍は原城の断崖絶壁を海まで降りてを兵糧の足しにした。 松平信綱は、城外に討って出た一揆軍の死体の胃を見分した結果、海藻しかないのを見て食料が尽きかけている事を知ったという。 ()、信綱の陣中に諸将が集まり軍議が行われ、この席で戸田氏鉄は兵糧攻めの継続を、水野勝成は総攻撃を主張するが、乱が長期間鎮圧されないと幕府の威信に関わることもあり、信綱は総攻撃を行うことを決定した。 その後、雨天が続き総攻撃は2月28日に延期されるが、の抜け駆けにより、予定の前日に総攻撃が開始され、諸大名が続々と攻撃を開始した。 の効果で城内の食料、弾薬は尽きかけており、討伐軍の数も圧倒的に多かったため、この総攻撃で原城は落城。 天草四郎は討ち取られ、一揆軍は皆殺しにされて乱は鎮圧された。 『常山紀談』によると、このとき本丸への一番乗りを水野勝成嫡子のと有馬直純嫡子が争ったという。 幕府の反乱軍への処断は苛烈を極め、島原半島南目と天草諸島のカトリック信徒は、乱への参加の強制を逃れて潜伏した者や僻地にいて反乱軍に取り込まれなかったため生き残ったわずかな旧領民以外ほぼ根絶された。 わずかに残された信者たちは深く潜伏し、となっていった。 島原の乱後に幕府は禁教策を強化し、政策を推し進めていく事になる。 また、これ以降によって各地で廃城となった城郭を反乱の拠点として使えないようにするため、破壊がいっそう進むことになった。 全期間を通じての幕府軍の総勢と籠城軍の概要は以下の通りである。 なお、攻勢・守勢双方にかなりの数の浪人が参加していた為、兵力は石高から考えた各大名固有の兵数を上回っている。 天草三氏(天草・志岐・栖本)のうち取り潰された天草・志岐の両家の浪人が指導層となり一揆軍に参加(栖本家は細川家に仕官しており、細川家臣として幕府軍に参加)。 また幕府軍にも日本全国から浪人が参加している。 また、島原及び天草地方の全ての住民が一揆に参加したわけではなく、幕府軍に加わったものも少なくなかった。 幕府軍 原城瓦片(長崎県南島原市)• 幕府派遣軍• 上使 - 、軍勢 800 (著名な従軍者:柳生清厳)• 上使 - 、軍勢 1500• 副使(目付)-• 副使 - 、軍勢 2500• 諸大名• - 総大将 ・大将 (勝成嫡男)・大将 (勝俊嫡男)、軍勢 5600(九州以外からの唯一の参陣)• - 総大将 、軍勢 1万8000(著名な従軍者:)• - 総大将 、軍勢 8300(著名な従軍者:)• - 総大将 ・大将 (宗茂養嗣子)、軍勢 5500(著名な従軍者:・)• 肥前国• 島原藩 - 総大将 、軍勢 2500• 唐津藩 - 総大将 、軍勢 7570• 佐賀藩 - 総大将 、軍勢 3万5000• 肥後国• - 総大将 、軍勢 2万3500• - 総大将 、軍勢 3300• - 総大将 、軍勢 6000 (著名な従軍者:、)• - 総大将 、軍勢 2500(著名な従軍者:)• - 総大将 、軍勢 1500• - 総大将 (家老)、軍勢 1000• その他 - 800 幕府討伐軍側は総勢13万近くの軍を動員。 死傷者数は諸説あるが、『島原記』には死者1130・負傷者6960、『有馬一件』には死者2800・負傷者7700、『オランダ商館長日記』には士卒8万のうち死者5712と記されている。 籠城軍 詳細は 参照• 総大将 -• 原城本丸大将 - (有馬氏旧臣)• 評定衆 - (小西氏旧臣)• 評定衆 - (有馬氏旧臣)• 評定衆 - (島津氏・小西氏旧臣• 評定衆 - (天草 元庄屋)• 評定衆 - (加藤氏家臣の子)• 惣奉行 - (小西氏旧臣)• 原城本丸番頭 - (有馬氏旧臣・松倉氏御用達南蛮絵師)• 浮武者頭 - (小西氏旧臣?)• 戦闘員 - 14,000人以上(推定)• 非戦闘員(女・子供など) - 13,000人以上(推定) 総計 約37,000人(総攻撃を前に脱出した一揆勢を除き27,000人とするなど異説あり)。 幕府軍の攻撃とその後の処刑によって最終的に籠城した老若男女37,000人は全員が死亡し、生き残ったのは内通者であった(南蛮絵師)ただ一人であったと言われる。 ただし、幕府軍の総攻撃の前に多くの投降者や一揆からの脱出者が出たとする説もある。 城に籠城した者は全員がキリシタンの百姓だったわけではなく、キリシタンでないにも関わらず強制的に一揆に参加させられた百姓や、或いは戦火から逃れるために一揆に参加した百姓も少なくなかった。 一揆からの投降者が助命された例や、一揆に参加させられた百姓の中に、隙を見て一揆から脱走した例 、正月晦日の水汲みの口実で投降した例 などがあることが各種史料から確認されている。 そして、 幕府軍の総攻撃の前には、原城の断崖絶壁を海側に降りて脱出する一揆勢の目撃情報があったとされ [ ]、また、幕府軍の総攻撃の際にも、一揆勢の中に脱出に成功した者や、殺されずに捕縛された者も決して少なくはなかったとする見方もある。 幕府軍への投降者の数は、1万人以上と推測する説があるが 、記録がなく実数は不明である。 オランダ商館長日記 p116-118、1637年12月17日。 [ 信頼性要検証]• , p. 125. , p. , p. , pp. 18-22. , pp. 125-126. , pp. 134-136. , pp. 145-148. , p. 159. 服部、P194• 服部、P184• 服部、P185• 服部、P196• , p. 131. , pp. 162-164. 常山紀談19巻、388条 [ 信頼性要検証]• , pp. 167-169. オランダ商館長日記 p146、1638年1月10日。 [ 信頼性要検証]• オランダ商館長日記 p159-173、1638年2月26日-3月13日。 [ 信頼性要検証]• 服部、P194。 原史料は「綿考輯録」第五巻p409。 服部、P195-P196• , pp. 184-187. , p. 197. , p. 199. (2010年7月22日時点の) [ 信頼性要検証]• , p. 197. 198.

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