二宮 金次郎 は 何 を した 人。 二宮尊徳(金次郎)の名言23選!仕事/人生/お金/学問の格言もご紹介!心に刻む。

二ノ宮金次郎ってなぜ偉人あつかいですか?何をしたんですか?

二宮 金次郎 は 何 を した 人

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二宮金次郎の生き方に学ぶ、人としてあるべき正しい道【超訳報徳記 書評】

二宮 金次郎 は 何 を した 人

「質素倹約」「勤勉」など、銅像の意味を表す言葉は教えられているものの、ではなぜあの銅像はたきぎを担いで本を読んでいるのか?と改めて問われると、大きなハテナマークが浮かびませんか? 二宮尊徳の幼名が金次郎です。 神奈川県小田原市(当時は相模国足柄上郡栢山村)の百姓の子として生まれた金次郎でしたが、住まいと畑の近くにあった酒匂川の水害により、家財もろとも流されてしまったのです。 悪いことは続き、金次郎が12歳の時に一家の大黒柱である父親が眼病となり、金次郎少年が一家の働き手となりました。 田畑の世話から酒匂川の水害対策工事にいたるまで率先して従事したものの、父親は回復せずに他界し、母も体調を崩して満足に働くことができませんでした。 14歳になった金次郎少年は、病気の母と幼い兄弟たちの面倒を見ながら、早朝から山にたきぎ拾いに行き、田畑を耕し、夜は内職の草履作りというハードワークな生活を送ることになりました。 しかし、病気の母も他界してしまい、兄弟たちは離れ離れに…。 預けられた祖父の家では、本を読む灯りにも窮し、自ら菜種油を絞って灯りを作り、それで本を読み、知識を蓄えたそうです。 親も財産も失い働かなければならない境遇でも、知恵とガッツで勉強する環境を作る金次郎の幼年時代を、たきぎの話と勉強の話をドッキングさせて丸ごと紹介したような小学校の銅像ですが、世の教育家たちが「二宮尊徳の幼年期」に注目したのは、少年時代の勤勉さではなく、大人になってからの業績が理由だったとも言えます。 二宮尊徳は江戸時代後期の人です。 18世紀後半から19世紀前半、幕府も藩も困窮を極めていて、効果的な財政改革を摸索しており、有名なところでは老中・水野忠邦の「天保の改革」が取組まれていた時代でした。 大人になった二宮尊徳は、こつこつと増やした財で生家の再興を成功させ、余った資産でさらに農地を買い集め、地主となり農園を経営しつつ、小田原藩の奉公人としても働きだしました。 倹約をしつつ勤勉をして、結果として財が集まっても、その金を蓄財して遊ばせず、設備投資に使用することで、「全ては小さな努力の積み重ねから」という「積小為大(せきしょういだい)」を実現。 無理なく着実に富を増やす二宮尊徳のスタイルに着目した小田原藩の家老・服部家は、彼に困窮した家政の建て直しを依頼しました。 焦らず無理せず、捨てられていた苗でも精魂篭めれば稲穂をつけることを実体験として知っている二宮尊徳の指導で、財政再建に成功した家老・服部家、そして小田原藩内で「優れた農政家であり思想家」と一目置かれた彼は、その後も飢饉に苦しむ約600もの村々に財政再建のやり方を指導し、豊かな実りをもたらして救済しました。 富を自分ひとりのものとせず、自然を敬い、その力を最大限に引き出して豊かな生活をみんなと一緒に享受すること。 そのためにはズルをせず、勤労と倹約、いたわりの心を忘れないこと。 今の豊かさを次の世代の豊かさに繋げるために、浪費せず正しく投資すること。 そんな二宮尊徳の考え方は、「報徳思想」として人々の心に受け継がれています。 「二宮金次郎の像」ブーム、いつから? 二宮尊徳 にのみやたかのり は天明7年 1787年 7月23日、相模国足柄上郡栢山 かやま 村 現在の神奈川県小田原市栢山 に誕生しました。 尊徳の生家があったとされる場所には現在、二宮尊徳記念館と昭和35年 1960年 に復元された尊徳の生家があります。 尊徳の幼名を「金次郎」といい、中流農家の長男として生まれましたが、尊徳が5歳の時に、暴風雨で近所を流れる酒匂川 さかわがわ が決壊し、二宮家の田畑が流されてしまいました。 幸い、田畑は数年で元に戻すことができましたが、復旧させるために大きな借金を抱えてしまった二宮家は生活に窮することになります。 悪いことは続き、寛政12年 1800年 には父が、その2年後の享和2年 1802年 には母が亡くなってしまいました。 さらには、同年に再度酒匂川が氾濫し、再び二宮家の田畑が流されてしまいました。 一度は大きな借金をして田畑を立て直したものの、もう一度復旧させるだけの財力は無く、泣く泣く家を手放すことになってしまいました。 この生家はその時のものを復元したもので、尊徳の祖父である銀右衛門が寛保2年 1742年 頃に建てたそうです。 「広間型三間取り」という間取りで、土間と接して囲炉裏のある広間を設け、上手 かみて には表側に座敷があり、裏手には寝室が設けられました。 当時の相模国の中流農家はこういった家だったらしく、銀右衛門は、農家の次男坊であったにも関わらず、わずかな土地から身を起して中流農家にまでなった人物でした。 祖父・銀右衛門が建てた家を手放すことになってしまった尊徳はさぞ無念だったことでしょう。 本家や、親族の家を転々としながら汗水垂らして働いた尊徳は4年後の文化3年 1806年 に生家を再興することに成功したのです。 この生家は昭和38年 1963年 に、神奈川県指定重要文化財に指定されています。 そして隣には昭和63年 1988年 に建設された二宮尊徳記念館があります。 地下1階、地上3階建てのこの建物では、尊徳の生涯や興した事業の資料や遺品が紹介され、さらには講堂や図書館に宿泊施設と、尊徳の報徳思想を学べる社会教育施設になっています。 二宮尊徳ゆかりの地 桜町陣屋跡 生家を再興し、小田原藩家老・服部十郎兵衛家の財政再建を成功させた尊徳の名声は高まり、小田原藩に無くてはならない人になっていました。 そこに小田原藩主・大久保忠真より、新たな財政再建の命が下されました。 場所は大久保家の分家である宇津家の所領がある下野国芳賀郡桜町です。 桜町にあった桜町陣屋は、現在の栃木県真岡市物井 合併前の二宮町 にあります。 桜町陣屋の陣主である宇津家は、小田原大久保家3代藩主・大久保忠朝の3男である宇津教信が、元禄11年 1698年 に芳賀郡4000石を分知されたのが始まりで、その翌年の元禄12年 1699年 に桜町陣屋が設けられました。 藩命を受けた尊徳は文政6年 1823年 、桜町主席として桜町に移住し、26年間に渡って財政再建に取り組み、見事再建を果たすのです。 現在は、国指定史跡に指定され、土塁跡とともに、移住した二宮一家が住んだといわれる住居が残っており、隣には尊徳を祀っている二宮神社と二宮尊徳資料館が併設されています。 二宮尊徳終焉の地 報徳仕法役所跡 桜町陣屋にて26年間に渡って財政再建に取り組み成功させた尊徳の手腕は、「報徳仕法」として有名となり、全国各地から教えを求められるようになりました。 その手腕を認めた幕府は、尊徳を直臣として取立て、弘化2年 1845年 には下野国真岡の代官である山内氏に従う形で、真岡に移住し報徳仕法を施しました。 そして嘉永6年 1853年 、天領である日光神領89カ村の再興を命じられ、日光神領に仕法を施しますが、病により安政3年 1856年 、志半ばにして、下野国今市村にあった報徳役所にて70年の生涯を閉じたのです。 尊徳が亡くなった報徳仕法役所は、現在の栃木県日光市にありました。 合併前の今市市です。 報徳仕法役所は安政2年 1855年 、尊徳69歳の時に設けられ、ここを拠点に日光神領の再興に務めました。 残念ながら現在、報徳仕法役所の建屋は残っておらず、尊徳の銅像と書庫だけが残っています。 二宮尊徳ゆかりの地 二宮尊徳の墓 二宮尊徳は生前に遺言を残していました。 「余の死近きにあるべし、余を葬るに分を越ゆることなかれ。 墓石を立つることなかれ。 碑を建つることなかれ。 ただ土を盛り上げてその傍らに松か杉を一本植え置けばそれにてよろし。 必ず余の言に違うことなかれ。 」 尊徳の葬儀は近くの如来寺で行われました。 葬列は報徳仕法役所のある春日町より続いていたとあり、どれほど慕われていたかが分かるエピソードです。 そして遺言通りに埋葬されましたが、一つ尊徳の誤算がありました。 それは、明治31年 1898年 のこと。 二宮尊徳終焉の地ということで、尊徳のお墓の周りに神社が創建されたのです。 その名は「報徳二宮神社」。 もちろん祀られているのは二宮尊徳その人であり、学問や経営の神様として今も人々に信仰されています。 そして昭和32年 1957年 には、二宮尊徳の墓が栃木県指定史跡に指定されました。 志半ばで亡くなった尊徳の志は、嫡男である二宮尊行に引き継がれ、戊辰戦争に今市が巻き込まれる時まで、日光神領に仕法が施されたのです。

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日本の農業の救世主!?二宮 金次郎(尊徳)とはどんな人物なのか?

二宮 金次郎 は 何 を した 人

二宮金次郎ご存知でしょうか? 名前だけ知ってるって人が多いかも。 ぼくはほとんど知らなかった。 「銅像の勤勉な少年」のイメージだけです。 荷物を運びながら本を読んでる。 あれ、危ないですよね。 スマホ見ながら配達してるようなもの。 コンプライアンスの時代、アウトじゃないかな。 かなり面白い本でした。 明治以降の近世が頭にすっと入る。 なぜ彼がもてはやされたかというミステリーもきっちり解き明かされる。 長くなるので、まず箇条書きで簡単にまとめます。 ・1787年生まれ。 1856年没。 ・金次郎は14歳で父、16歳で母を亡くす。 弟は13歳と4歳。 ・子どもらは親戚にばらばらに引き取られる。 ・18歳で奉公に出る。 さらに廃田の開墾も行う。 ・20歳で貯めた金で手放した農地を買い戻し、一家のあった場所に小屋を建て自活始める。 ・24歳の時には1町4反5畝の田畑を所有。 実質的に一家を再興した。 ・31歳では3町8反をもつ村内で有数の地主になる。 ・金次郎は買い戻した田畑は小作に出し、自分は賃仕事をして現金収入を得た。 ・金を貸してその利息でも稼いだ。 米の売買も手掛けた。 ・薪山の伐採権を買って、薪の販売でも収入を得た。 ・語られないが、じつは功利的な起業家。 ・小田原藩筆頭家老の服部家で奉公人になったのは26歳。 奉公人のリーダー格になる。 ・服部家の家計は火の車。 家政立て直しをまかされる。 仕事場から帰らない金次郎。 ・生まれた長男は生後1月で亡くなる。 それでも仕事バカ。 奥さんから離縁される。 ・服部家の立て直しの取り組みが評価され、藩主にも知られる存在になる。 ・小田原藩主からも財政など立て直しを任される。 ・小田原藩以外にもいくつもの藩や領地の再建を任される。 ・天保の改革で老中水野忠邦に、幕臣として採用される。 ・死後に弟子たちが金次郎の業績をたたえまとめる。 ・これを明治天皇がたたえる。 政官界に金次郎の名が広がる。 ・売れっ子作家が一般大衆向けに金次郎のファンタジーを書く。 日本人みんなが知る。 ・富国強兵時代の国民像に金次郎は理想的。 日本中の教科書が金次郎のことを教育する。 ・GHQが日本の共産化を防ぐために、金次郎をたたえる。 ・しばらく金次郎は消えていたが、ふたたび復活のきざしあり。 以下に読書メモを。 二宮金次郎の考えた方策 ・当時の利息は2割と高く元金が減らない。 藩主に窮乏する藩士への低金利融資を提案する。 ・凶作で米の生産高が減じていた。 米は人口と田畑に制約される。 他藩から移民受け入れ。 ・長年の収入と支出を把握してその平均を求める。 収入以上の支出をおさえ倹約する。 ・農民の意欲を出させる。 表彰したり、功のあったものには金やコメを与え低利融資する。 金次郎の考えた冥加金はいまでいうファンド 金次郎が実施した困窮者の救済方法。 まず収入と支出の平均値を求める。 収支計画がたてば無利子の金で借金を返済させる。 10両の借金なら毎年2両払えば5年で完済する。 従来の2割の利息なら永遠に元金は減らないが無利子なら5年で終わる。 金次郎はそこで終わらせない。 無利子のお礼として1年から数年、2両を供出させる。 この供出金を「冥加金」という。 冥加金は貸主の利益にはしない。 それは積み立てられ、また誰か必要な人に貸し出される。 助けられた人が次の人を助ける。 金次郎はこれを「勤倹譲」といった。 収支計画を立て、決まった範囲で生活を営ませることは「倹」である。 そして余剰を出せば必要な人に「譲」る。 譲った金を積み立てたものを「報徳金」といった。 いまでいうファンド。 相互扶助の仕組み。 もちろんその前提に「勤」がある。 こつこつ働き生産を上げる。 毎日縄1本あめば1年後に360本になる。 塵も積もれば山となる。 これを「積小為大」という。 1年後に草履や縄を買い上げてその代金を渡すしくみもつくった。 なぜ二宮金次郎は広まったのか? 弟子たちは金次郎の偉大な業績をまとめていた。 「報徳記」という。 旧藩主経由で明治天皇が読まれた。 天皇は「広くこれを知らしむべし」と。 いろんな団体が印刷配布した。 1891年当時売り出し中の若手作家の幸田露伴。 「報徳記」を下敷きに少年少女向けに流麗な文語で金次郎の一生を描く。 この本が爆発的に売れた。 一般大衆の知るところになる。 銅像の薪と本。 これは事実とは言えない。 幸田露伴のその姿の挿絵があった。 その元は「報徳記」の「採薪の往返にも大学の書を懐にして途中読みながら之を誦し少しも怠らず」という、事実とはいえない一文。 その後、品川弥二郎がドイツ留学する。 1871年ドイツはめざましく発展していた。 信用組合が原動力。 靴職人の原材料の共同購入と購入費の融資を行う購買組合と信用組合を設立。 それは貧しい農民にも広がり、農民信用組合、農協組合銀行ができた。 品川は信用組合は資産資本をもたない日本の大半の零細農民の発展の基礎となることを実感する。 1882年品川は現在の農林水産省事務次官の立場になる。 品川の産業政策は「政府自らことをなさず、一般国民をしてこれをなさしむる」。 いまでいう民間主導。 予算の多くは軍事費。 明治20年代は約3割が軍事費。 日清戦争時は7割、日露戦争時は8割になった。 金はない。 しかし殖産興業を推進する必要はある。 品川の頭には信用組合があった。 しかしドイツのものを日本に持ってきても反発される。 そこで二宮金次郎だ。 「報徳」だ。 品川は明治天皇に二宮金次郎への贈位を推薦。 内務大臣になった品川は「信用組合法」を議会に提出。 とうぜん反対派もいる。 議会で品川は訴える。 「贈従四位二宮尊徳翁の遺法から成り立ってます報徳社は徳をもって徳に報いる精神でありますが、これはほとんど信用組合の制度に異ならぬもの」と、金次郎への贈位をさっそく演説に盛り込んだ。 法案を通すために金次郎を利用し、その強引な手法が批判を呼び、学会や農商務省の反発を呼ぶ。 明治24年の議会は大幅増額された軍事費をめぐって紛糾。 衆議院は解散し信用組合法は廃案になってしまう。 結局明治32年「産業組合法案」として帝国議会に提出され成立する。 品川は同法案が議会を通過した三日後に病で逝く。 教育勅語とは?教科書と二宮金次郎 教育勅語とは一言でいえば、「万世一系天皇主権の国において、その臣民たる国民が果たすべき役割を説いたもの。 道徳的なふるまいがたくさん書かれている。 それが天皇を頂点とする国体を維持するために必要だから。 結局は天皇の言葉は絶対的に正しいので、けっして逆らうことなく命じられたらしっかりと自らの勤めを果たせ、というのが教育勅語の精神」 徴兵制度には各地で一揆がおこるなど、国民の反発が強かった。 教科書は検定化され国定化された。 1897年ごろから修身教科書に歴史上の人物を登場させ、模範を示させるようになった。 この中に二宮金次郎のエピソードが取り上げられるようになる。 全27課のうち「孝行」「勤勉」「学問」「自営」の4つの課で取り上げられており、中には全課の3分の2が金次郎の逸話で構成された教科書もあった。 ちなみに2018年4月より、小学校で教科書と評価のある「特別の教科 道徳」の授業が始まった。 検定に合格した8社の教科書のうち3社が「二宮金次郎」のエピソードを取りあげた。 中学校は19年度開始予定。

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