ふるさと の 訛 なつかし 停車場 の 人ごみ の 中 に そ を 聴き に ゆく。 石川啄木歌碑

5ページ目の[ 近代短歌の沃野 ]

ふるさと の 訛 なつかし 停車場 の 人ごみ の 中 に そ を 聴き に ゆく

概要 [ ] 43年 、より初版が刊行された。 啄木は同年に係として『二葉亭全集』の校正を行っており、9月に朝日歌壇が設けられると選者を務めている。 同年6月にが起こると社会主義評論も手がけ、10月には長男・真一が誕生しているが、まもなく死去している。 序文を書いている「藪野椋十」とは、当時の啄木の勤務先であるで社会部長を務めていた上司にあたる(柳次郎)のことである。 献辞では啄木を経済的・精神的に支えた・への感謝や、夭折した長男・真一への哀悼が語られている。 はのが描いている。 「我を愛する歌」「煙」「秋風のこころよさに」「忘れがたき人人」「手套を脱ぐ時」の五部構成。 551首が入収。 歌人・の(善麿)は同年4月に歌集『NAKIWARAI』(ローマ字ひろめ会)を刊行し、三行表記の短歌を提唱した。 なお、土岐善麿と啄木は(明治44年)1月に知り合い、雑誌『樹木と果実』の発刊を計画するが、これは実現に至らなかった。 善麿は病床の啄木を生活面においても支え、没後には啄木作品の刊行にも携わっている。 啄木は『一握の砂』においてこれに倣い、三行分けによる散文的なスタイルのは、若い世代を中心に多くの追従者を生んだ。 啄木の時代の回想や、故郷・岩手への望郷を歌った歌、貧困と挫折で鬱屈した心情などを歌った歌等が収められている。 特に啄木の郷里のでは、刊行前後から地元紙に啄木の作品が掲載されたこともあり、その影響は大きかった。 その一人がの後輩で当時在学中だったで、本作の刊行と同時期に短歌創作を始めており、啄木の影響と推察されている。 歌風は、徹底的なであり、雄大な情景よりは、ごくありふれた人間的な感覚を歌ったものが多い。 もっとも過激な例でいえば「どんよりと くもれる空を 見ていしに 人を殺したく なりにけるかな」といった短歌さえ所収されているほどである。 代表歌 [ ]• ふるさとの 山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな• 石をもて 追はるがごとく ふるさとを 出でしかなしみ 消ゆる時なし• はたらけど はたらけど猶 わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと手を見る• いのちなき 砂のかなしさよ さらさらと 握れば指の あひだより落つ 陸前高田歌碑にもなっている• ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく (一握の砂, 今昔秀歌百撰82,選者:大喜多俊一 元京都市教育委員会 ) 出版書籍 [ ]• 脚注 [ ]• 『石川啄木 愛と悲しみの歌』(山梨県立文学館、2012年)、p. 42 外部リンク [ ]• この項目は、 に関連した です。 などしてくださる(/)。

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石川啄木の短歌で「停車場」が入っている作品と石川啄木の想い

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四月七日に発令された緊急事態宣言は四月十六日、国内全都道府県に拡大される。 五月四日には、政府はさらに同宣言を五月三一日まで延長することを発表した。 引き続き図書館も劇場も開いていませんが、皆様がいかがおすごしでしょうか。 お家にマスクは届きましたか? 角川『短歌』五月号の特集「日常・社会はどう歌うか」では、「やりがちな失敗例」として「日記になってしまう」(志野暁子)、「ニュースの見出しになってしまう」(大崎瀬都)、「標語になってしまう」(後藤由紀恵)、「キャッチコピーになってしまう」(内山晶太)と、一般的によく陥りがちな問題について文章を寄せている。 それぞれのトピックについては、これまで歌会の場や実作論として、多くの人に繰り返し言及されていることではあるが、特に内山の論が面白かった。 「(略)キャッチコピーは言葉がうまく丸められることで威力を発揮する。 大勢の、さまざまな性質を持った一人一人に最大限沿うように、言葉が整えられる。 短歌もそうなのではないか、という疑問が出てくるかもしれない。 が、短歌は言葉を整えることに第一義があるわけではない。 むしろ言葉が赴くままに動くことのほうに意義があって、結果的に整うことはあれ、それはあくまでもひとつの結果にすぎないのである。 」 創作者側の態度として、言葉を整えることを第一義としない、というのは非常に分かりやすいポイントである。 一首の言葉の流れが「結果的に整う」ことについては、作者の力場=推敲の結果の側面と、読者の力場=共感の結果の側面、の二つの要素に腑分けして考えてみたい。 多くの人に最大限沿うように整えられた言葉。 最大公約数的な共感は、結果的に愛唱性を獲得する。 高度に発達した愛唱歌はむしろ人々に繰り返し読まれ、言及されることによって「言葉が丸められ」、キャッチコピーに近づいてゆくのではないだろうか。 ちなみに同特集では、高木佳子の選による「秀逸な日常詠・社会詠30首」が纏められており、一首目に啄木の「ふるさとの訛なつかし/停車場の人ごみの中に/そを聴きにゆく」が挙げられている。 コピーやスローガンの類が多くの大衆の共感を呼ぶことを目的とするものだとして、それが行き過ぎ、破綻した結果、所謂「ポエム」と呼ばれるようになるのは大変興味深い。 現代の「ポエム」という語については細心の注意を払って運用しないと多方面から矢が飛んでくるのですが、ここでは便宜上「詩的な言葉」くらいの意味だと思ってください。 そのうち時評で書きます。 一例を挙げれば、フレーズの抽象化と類型化が高度に発達した分譲マンションの広告は、写真家の大山顕らによって「マンションポエム」と呼ばれ、今ではすっかり定着した。 あるいは、政治家の発言についても(およそネガティブな意味で)ポエムと呼ばれるものが増えている。 例えば敬意・感謝・絆などの耳障りのよい言葉で何をか意味のあることを言った気になってしまい、人々の共感に至らないという意味で、これは確かに(失敗した)ポエムといえるかもしれない。 空々しく破綻した政治の言葉と、ありがちな失敗をした社会詠は、結果的に形が似ている。 日常も社会も破綻しつつある状況で、敢えて何か表現しようとするのは大変なことだが、しかしここで、歌人はもっと怒りの政治詠を詠め、というような親父の小言を真に受けると、それこそ安直なスローガンに陥るだろう。 それはそれでたのしいのかもしれないけれど。 短歌時評 一覧• 2020年6月• 2020年5月号• 2020年4月号• 2020年3月号• 2020年2月号• 2020年1月号• 2019年12月号• 2019年11月号• 2019年10月号• 2019年9月号• 2019年8月号• 2019年7月号• 2019年6月号• 2019年5月号• 2019年4月号• 2019年3月号• 2019年2月号• 2019年1月号• 2018年12月号• 2018年11月号.

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英語で読む石川啄木

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正岡子規(まさおか・しき) 桜さく上野の岡ゆ見おろせば根岸の里に柳垂れたり 雨にして上野の山をわがこせば 幌 ほろのすき間よ花の散る見ゆ 大川の川の 堤 つつみにさく花の薄花雲はたなびきにけり 桜さく隅田の堤人をしげみ 白鬚 しらひげまでは行かで帰りぬ 明治34年(1901) 註 上野の岡:東京・上野公園。 (上野の岡)ゆ:~より。 ~から。 根岸の里:自宅(現・子規庵)付近。 幌 ほろ:人力車であろう。 (すき間)よ:「ゆ」に同じ。 ~より。 ~から。 大川:隅田川の通称。 人をしげみ:上古語の「ヲミ語法」。 人が多いので。 (病気の作者にとって)殷賑に過ぎるので、雑踏を避けて。 白鬚 しらひげ:隅田川東岸の現・東京都墨田区東向島付近の地名。 地名の元となった白鬚神社がある。 付近には、隅田川に架かる白鬚橋や向島百花園などがある。 この歌では白鬚橋を指すか。

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